記憶と風景の遠近法 2

 玄関を出て眼の前は県道である。左に向かって進んでいく。左腕のある側には塀がある。塀はコンクリートのような灰色に淡い緑と僅かな茶色を混ぜたような、決して単一ではなく、マーブル状の、マーブルと云ってしまうと、それは大理石のことであるので、マーブルではないが、マーブル状という言葉が、いや、マーブル状よりももっと細かく、連なりのない、線ではない、斑と云うにはそれぞれの面積が小さすぎる、ごま塩、それでは色が2色しかない、混在と独立と調和を満たした色の塀が続く。2分歩くと、登り坂が始まる。坂の途中にはグレーチングが道を横切って設置されている。グレーチングとはステンレス製の網状の長方形の頑丈な、側溝の蓋とすべく企図された商品であり、これがグレーチングであると知っている人はグレーチングを見つけるとこれはグレーチングだといわずにおれなくなる商品である。道は角度を緩め坂道は平坦に変わる。それが平坦であるか、登りであるか、それはそこを進むもの、ものは者でも物でもモノでも、それはその主語の性質は、特に変化し、ここでそれを特定する必要などない、によって変わるだろう。平坦でも登りでもあるその道は少しの直線を経て、右へおよそ直角に曲がる。直角と言う言葉は90度のことであるが、この道の角度は90度ではないので、直角のカーブではない。しかし、結果として先程まで進んでいた方向はこのカーブを過ぎた先で、例えば、いや例える必要もなく、先程まで北進だったものが東進しているのだから、結果として、つまり、ものの進む方向の変化の結果としての直角カーブであると云って語弊はない。道には落ち葉が落ちている。落ちている枯れ葉は落ち葉である。落ち葉は落ち葉というカテゴリーに嵌め込まれてるが、全ての落ち葉が同じ落ち葉ではない、それどころが、同じ落ち葉は1つとしてない。落ち葉はすべて異なる形をしており、形だけでなく、色も、もちろん、落ち葉は枯れ葉なのだから、いや、枯れなくても木の葉はときに落ちることもある、それは例えば強い風が吹いて、あるいは、誰かが木を揺すって、まだ緑の、緑色というのは植物、ここでは木、の生命力が強く保持されている状態での、木の状態の葉。それらが落ちることもあるが、だから、さて、落ち葉の色は茶色、薄い茶色、茶色と緑の間の色、緑色と云っても黄色っぽい緑色も濃い黒いっぽい緑色も、あるいはそれらの色の境界線のない混ざりあった色の、葉がある。落ち葉の、それらの色、そして形、形というのは視覚上、2次元的な形状を思い浮かべるが、3次元空間に存在している人間そして植物であるから、厚みを伴った、XYZ3軸の組み合わせによって表現される、その違い、そして硬さや匂いも含めて、その組み合わせ、あらゆる要素の組み合わせによってどれとして同じ落ち葉はないということを道路の端で大声で叫んでみたが誰も居ない。

 道は上り、登ったあと、下りおりる、その間の一切を省略することができる。下ったあと、交差点がある。交差点を左へ曲がる。食品工場が見えてくる。その建物が食品工場であることはその建物の上部に設置された看板に書かれた会社の名前によって推測された結果である。音もなく動きもなく、何を作っているのかは外観からは想像できないが、なにか食べるものを作っているのだろう、もしかすると食べたことがあるのかもしれないだろう、ないのかもしれないが、それはわからない。この工場に入荷した材料をこの工場の従業員がこの工場の機械を、この工場に供給された電気で動かして作った何かしらの食料品が私の体の一部になって、あるいは取り込まれた食品はエネルギーとして利用されて、思考の、もしくは運動の、燃料になったかもしれないということ想像している今この瞬間の思考が、この工場の生産した、なにかしらの商品によってのもたらされたものであるかもしれないということを想像すると、この工場のおかげでこの文章は生まれたという感謝の気持ちを持って、そして、また、進む。そこにはリピート、交差点がある。交差点の一角にはドラッグストアがあり、交差点とその交差点を構成する2本の道路、それとその土地の組み合わせにより、このドラッグストアのための駐車場への入り口は計3箇所ある。どこから入り、どこから出るのか、それは利便性によってもたらされる結論であるのか、しかし。しかし人間は。決して計算だけでは行動していないのであるのか、何気なく、という言葉が、その行動のまさに正鵠を射た、そう、どこから入るかなど、すべての人が必ず何らかの、明確な、理由を持ってそのフェンスとフェンスの間を通り抜けているわけではないのである。結果として、駐車場に入り、さらにその結果としてドラッグストアのドアを通り抜け、店内に侵入してしまえばその過程、つまり、どの出入り口を利用するかなどは、もはや言うまでもない。ドラッグストアのトイレは建物の左端にある。

 2軒のコンビニネンスストトアトトアスアトスを配されている道沿いには街路樹が成人男性が手を頭上に伸ばしたぐらいの全長の等間隔で長さでおよそ500mの継続を持って植わっている。暖かくなると葉を茂らせ街路樹は成長する。市の職員、あるいは市に雇われたエージェントは秋になるとその街路樹のすべての枝を切り落とす。冬になれば全ての街路樹はすべての枝と枝の先の葉を失う。その姿は黒に近いやや白味を持った茶色の巨大な太い棒であり、高さは3m4mほどの、あるいは目測を誤っているかもしれないから5m以上の可能性も孕んで、貫禄と威厳を持った、植物を超越した何らかであるようにみえてくる。おそらく他の誰にもそんなふうには見えていないかもしれないが、少なくとも私には、その御姿が羅漢像のようにさえ見えてくるのである。500mに渡って道の両側に一定間隔をもって立っておられる無数の羅漢像。アパートメント、デイケアセンター、公立校、理容院。住民と生活と交通網。切られた木で外面的特徴として彫り上げられた木仏とは対局にある生きた木の内面性の発露としての羅漢像。それは私にとって芽吹き、植物としての割合がおおきくなるまでの限定された期間だけの時間の間にとって、有難き精神的主柱そのものであるのである。

 巨大なMの、形状をさらに正確に表現するならUUをくっつけて時計回りに、または反時計回りに6時間分回転させた字形の、黄色い光を放つ看板が回っていない。回っていたはずであるが、それがいつまで回っていたのか、いつ止まったのか判らない。昨日よりもずっと前、年の単位で昔、あるいは、この場所のその看板は最初から回ってなんていなかったのに、他の場所の回っている回っていた看板と記憶が入り混じっているのでここの看板も回っていた時期があったと思っているのかもしれない。回っていようとも回っていなくともその巨大な看板が、敷地内の背の低い生け垣の向こう側の歩道を歩く歩行者とその歩道の向こうを進む自動車の運転者と二輪車の運転者にハンバーガーを買えと無言の圧を圧ってくる。ドライブスルーに乗り物を誘導していく。隣りにはファミリーレストランがある。どちらもアルファベットを建物の側面に書いている。アルファベットの持つ、日本人へに対する特有のパワーが先程申し上げた歩行者と運転者と運転者に訴えかけるお洒落た風と気軽さの、それがたとえ真実でなくても、パンケーキを食べますかピザにしますかチーズバーガーとフライドポテトのセットですか鉄火丼ですかドリンクバーの種類は豊富です新メニューはパティが2枚ですのメッセージを形而下の力強さを持って断固として採用している英単語群。

 民家が立ち並ぶ道路の民家と民家の間にペットグッズショップがあり、そのペットグッズショップは犬を想起させる名前の屋号であり、その屋号を見て猫は何を思うのか。この道を歩く野良猫はそのペットショップの斜向かいにある中古車店の中古車を見て何を思うのか。中古車店の事務所の中が建物のガラス窓を通して見える。ガラス窓を通して侵入した太陽光線によって壁に貼られたポスターの赤色成分は褪せて、青色と黄色と黒色による像が紙の上に残っている。それでも何を伝えたいのかはまだわかるから、それはポスターとしてのアイデンティティを保有している。ディスプレイされたヘルメットも色あせている、それもまた太陽光線の力によるものであるのか、あるいは堆積したホコリが、メタリックブルーの反射力を遮蔽隠匿しているのか、あるいは店長の喫煙の結果であるのか、またはそれらの複合的結果であるのかという、しかし、店長が喫煙者であることは、またこれはどこにもその確定すべき情報を得ていない。並べられた中古車の前の柵、その柵の傍らに咲く花の色は薄い紫と白色のグラデーション。中古車店の角を左に曲がると橋があり橋の向こうには歯医者があり、歯医者には道沿いに窓がなく、窓とは内と外の区切りである壁に設けられた光のための出入り口であり、光とは情報でありエネルギーであり感情であり希望であり愛情であり、橋を渡る私の心の有り様を歯医者の建物と壁の緑色と、窓のない壁の壁と窓の割合によってもたらされるものは、となりの田んぼのあぜ道に咲く花の発見によって完成する。それはやさしい、まるで輪郭を持たない世界。

 交差点の12字方向と9字方向は生活道路という名の狭隘な全幅に狭められて必然的に6時の位置にいる私は3時の方向へ行かざるを得なくなる。視界がひらける。農業と工業と商業の光学的情報を錐体細胞に注ぎ込んで、視床下部にもたらされた結論。そこにあるのは、金属的ぬめり感、毳毳しい光沢を控えめにした銀色の外観を持つ小さい工場チックな建物であり、鈍い反射光を後頭部で意識しながら越えてコンビニも過ぎてディスカウントストアの盛況を気にしてたどり着いた三叉路、向こうには竹やぶが見えるから、地盤の崩壊は心配しなくてもいいだろう。でもそれは向こうの話であって、こちら側に存在している意識体にとって崩壊は、この崩壊とは地面や物質のことを限定しているのではない、思考に対しての崩壊を中心的にとらえているんだ。ディスカウントストアから出てきたあの夫婦には関係のない不安定な形而上世界のホチキスの役割を担うべく、亀裂を駆け足で結合すべく、六時から九時の方向へ進むと左手に小さな公園がある。公園とすら言えないほどの大きさの、休憩スペースのような、木製屋根がついた木製ベンチと、木製テーブルが設置された空間がある。男性がトランペットを練習して、語尾によって誕生する時制はもはや意味を持たない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?