サボテンを捨てた

 サボテンを捨てた。
 リビンクの40V型液晶テレビの傍らに、寝室の無印良品製デスクの片隅に、小さい観葉植物を置いている。心が休まるので、植物は好きだ。植物が成長していくその様に明日への活力を与えてもらう。生きる力に満ちたその姿に魅了される。中でも、サボテンはその見た目の愛らしさが良い。今までも何度かサボテンを購入して育ててきた。そして毎回枯らせてしまっている。申し訳ないと思う。理由は毎度同じだ。水をやりすぎてしまうのである。サボテンは砂漠とか高地とかそういう乾燥した環境に順応した植物なので、水なんて殆どやらなくても、というよりむしろ水をやらないほうがよい。土に差された札の注意書きにもそう書いてある。水を与えすぎるとすぐに腐って枯れてしまうのである。

 その事は頭では理解しているのだけれど、つい、水をやりすぎてしまう。1ヶ月もやってなかったからちょっと多めに、と思ってディド。そして数日後、失敗に気付く。ぶよぶよになってしまったサボテンが元に戻ることはもうない。恢復を祈るが虚しく、枯れて土に還ってゆく。
 100円で買ったサボテンを死なせてしまったときに味わう100円以上の喪失感。

 放置することとは何もしないこと。それは愛なのだろうか。僕にはどうしても、与える水こそが愛の表現なのだと、何かしらの干渉こそが愛であると、それは僕の勝手な勘違いの行為だとしても。そう、僕とサボテンの間にいつも生じるすれ違い、1人と1つの価値観の相違。愛とは何であるか。与えることと突き放すこと。もしかするとそのすれ違いは僕とサボテンの間だけではなくて、僕と他のなにか、僕と誰かの間にも。僕はそれに気づいていないだけで、きっとそこには愛する側と愛される側、あるいは愛したい側と愛を与えられてしまう側の、愛に対する解釈のすれ違いがあるのだろう。サボテンは「水なんていらない」と云ってくれないけれど、人はどうだろうか。

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