スパゲッティ3本の様式美

 とある会合に参加した。朝から夕方までの長丁場。午後1時過ぎに昼休憩となり、ありがたいことに弁当を支給してくれたので、これはありがたいと、ありがたく弁当を頂いた。れんこんのはさみ揚げがとても美味しい。鳥の照り焼きがとても美味しい。鳥の照り焼きの下にスパゲッティが敷いてあった。よくある配置である。が、しかし、そのスパゲッティが3本しかない。ちゃんと数えたから間違いないし、数えられるほどの本数しかなかったから間違えようがない。
 こんな弁当は初めてだ。たったの3本ぐらいなら入れなくてもよいのではないかと最初は思った。スパゲッティが入っていないことにがっかりする客も、クレームを入れる客もいないのではないか。そもそも、弁当とは、中身を見て納得して購入する客か、支給されたものを粛々といただく他人しかいないのだから、苦情など出ようがない。それにもかかわらず、省略せずにスパゲッティを3本敷いてある。

 これはもはや現代の様式美として把捉するべきではないか。仕出し弁当のメインディッシュの下にはスパゲッティを敷く。量や味の問題ではない。他のおかずとの相性など関係ない。最初は輸送や調理のためにスパゲッティを敷くことが何かしらの好都合につながったのかもしれないがそれも今日(こんにち)となっては意味を持たない。栄養のバランスも関係ない。弁当業者は遂に、そこにスパゲッティが敷いてあるということが仕出し弁当の正しい作法であり、本質的な美しさであるという境地に達したのである。
 3本のスパゲッティを敷くためにどれだけの準備が必要か。たとえ100人前作ったとて、たったの300本のスパゲッティで足りてしまう。それをたっぷりのお湯で茹で、3本ずつ手に取り、小さなスペースからはみ出さぬよう配置し、その上に鶏の照り焼きを置く。その手順に対して、我々は日本人が古来より持つ美意識を発見せねばならない。食に対するこだわりやもてなしの心といった狭い範囲の話ではない。美そのものに対する意識の問題である。簡略化してしまっても誰も文句を言わないだろうが、美しさもまた消滅する。だからいただく我々はその事に気づき、その様式としての美の存在を愛で、褒めようではないか、もぐもぐもぐ。

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