脱サラと蕎麦屋

 中年男性が脱サラし、田舎に移住した場合、十中八九、蕎麦屋を始める。理由はいくつでも考えられる。まず、こだわり感を出せる。男はこだわるのが大好きであり、そのこだわりを人に語るのが好きであり、他人と同じこだわりを共有するのが好きであるから、そば粉にこだわり、水にこだわり、打ち方にこだわれる蕎麦はぴったりなのだ。それでいて、手間がかからない。蕎麦屋は蕎麦を打てればほぼなんとかなる。つゆなんて簡単に作れる。こだわったって誰も気付きゃしない。これがラーメン屋だとそうはいかない。スープを作るだけで何十種類もの材料を用意し、何時間もあるいは何日も炊いて作らねばならない。そんな時間と手間は脱サラ男性には無理なのである。脱サラ男性とは、そこまでの本気度を求められるとたじろぐ人たちなのだ。さらに、蕎麦屋は蕎麦だけ作れば、あとはサイドメニューの天ぷらぐらいがあればよい。定食屋のようになんでも作る必要がないし、作り置きだの下ごしらえだのを準備する必要もない。天ぷらのたねに、地元の野菜や、自分で採ってきた山菜・きのこを使えるのもこだわり指数が高くできるポイントだ。さらに蕎麦を打つ姿を客に見せれるのも良い。ガラス越しに見せれば、すごそう美味そうこだわってそう(これが一番大事)に勘違いされて皆が来店してくれるからだ。そして、なぜか中年男女は蕎麦が好きだ。地方へ旅行に来て蕎麦屋で十割蕎麦を食えばなんだか旅行を満喫している気分になる。その蕎麦が日本一美味いとか熟練の名人が打ったとかそういうことはどうでもいいのだ。いやむしろ、脱サラして蕎麦屋を始めた主人が作ったところにさらなる魅力を感じて、私もぜひこういうところに住んでみたいです(=住んでみたくないんです)とか言いながら、(たぶん再来年ぐらいには閉店してるんだろうなあ)とか1%ぐらいは感じながら、もののあはれ。あるいは哀れみを、麺とともに噛みしめるのである。そして稀に、思いっきり影響を受けてしまった中年男性がまた1人脱サラし、どこかの田舎へ引っ越して蕎麦屋を始め、蕎麦屋の輪廻転生がつながっていくのである。

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