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「男らしさ」「女らしさ」という言葉への感じ方の変遷

フェミニストを名乗らせてもらうようになってまだ数年ですが、
たぶん子供の頃からフェミニスト寄りの考え方・感じ方をしてきた期間は長いです。

育った家庭は昭和後期の緩い男尊女卑が当たり前でしたので、「フェミニストと言いながら刷り込みを受け継いでたな~」と、目から鱗を落としまくった時期もあります。

大人になるにつれて刷り込みから脱皮し、「男らしい」とか「女らしい」という言葉にアレルギー反応を示してきましたが、
アラフォーになった最近、これがまた少し変化してきた。

そう、「男らしさ」「女らしさ」という言葉そのものはなくなったら味気ないのでは?という哲学。

「男なら泣くな」とか「女の子なんだからおしとやかにしなさい」とか、そういう『価値観や概念の押し付け』に使われる「らしさ」は淘汰されていって欲しいと願って止みませんが、
「男らしくなりたい」「女らしくありたい」という希望の概念としては、やっぱり使いたい言葉のような気もするのです。

これ、そうは思っても難しいところで、やはりこの概念が残る限り、『~らしくあるべき』もセットで残ってしまう気もしないでもない。どうでしょう?
『べき』が残らなくても、この言葉が不快な人もいるかもしれませんし。

少し脱線しますが、一時期、髪型(色)・メイクの表現で『外国人風』という表現が、流行と物議の両方を経験しました。あれは私、広告に携わる社会人として当事者、個人としては部外者(第三者)でした。
憧れを象徴した褒め言葉だけどダメなん?韓国風メイクとか炎上したことあった?!とビックリしたのを覚えてます。
「男らしさ」「女らしさ」という言葉を前に冷静でいられない方は、この『外国人風』というワードでいろんなSNSを検索してみて頂くと良いかもしれません。

まあ結論、「男らしさ」「女らしさ」という言葉にクソデカ主語たる『男』『女』が着いてるから、良くない現象が起きる。というのは分かってます。言い換え表現が浸透すれば良いんです。
そういう結論に至る前に「概念は残ってて欲しい」と思ったきっかけは何故なのか。

趣味の歌舞伎観賞です。
女形を主とする役者さんたちがめちゃくちゃ好きなので、「は~、そんじょそこらの女(私)たちよりずっと女らしい、あんな風に、怒ってても色っぽくありたい」とうっとりしながら見てるわけです。

「お淑やか」「色っぽい」「艶っぽい」「可憐」等、クソデカ主語を付けずにいくらでも表現できるんですが、まとめると「女っぽい」。
舞台役者さんとは方向が違うけど、IKKOさんのハイヒールとか着物(女もの)でキレイに手足を運ぶのとかめちゃ女っぽくない?私できない。できるようになりたい。(IKKOさんって今どこの性別カテゴリになるんだ?分かんないな、分かんなくていいかな)

要は、「男は男らしくあらねばならない」「女は女らしくあらねばならない」という、『べき』概念だけなくなってくれないかなぁと。

「男らしさ」の方が窮屈そうで、とっととなくなって欲しいなと思います。
何かこう最近、「男前~」と褒められる機会が増えたんですが、だいたい
・飲食の支払い(奢った時)
か、
・取引先の怒鳴るオジサンに毅然と立ち向かう時
なんですよね。

これに「男らしさ」という名前付けられてちゃ男性陣たまったもんじゃないよな…と。奢らなければ男じゃないのか?大声で恫喝まがいのクレーム付けて来る人なんて誰でも苦手なのでは?
私への褒め言葉として微妙に失礼なような、でも我ながら今のは男前やったなと思ってしまい、後から反省するような、なんかそんな気持ち。

それとも、私が女だから「女らしさの押しつけ」にマシンガンのように言い返すことに慣れているだけか?男らしさは私は押しつけられること無いからな…。




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