ヘンであり続けるために

朝日新聞デジタルの記事「発達障害、大学生のケア後手 学生ら8年前の20倍」(2016年2月26日)には「教室移動や履修登録ができない▽ノートがとれない▽提出物を忘れる▽友人ができない▽物事の処理が遅い」という発達障害の判断基準が書かれているが,それは学生だけじゃなくって,教員にもあてはまる.

以前,東大の専攻教員会議で学生の発達障害にどう対応するかという議論があった.配布された発達障害の判断基準リストを専攻長が読み上げたところ,多くの教員が「学生ではなく,われわれ教員の方が……」というコンセンサスだったが,ま,そういうもんだろう.となると,いったい誰が誰のケアをするのか,という難問が急浮上.“発達障害” の学生のケアは大学がやるとして,同じ “発達障害” の教員のケアはあっさり放置かな.もちろん,“同病” の教員と学生が互いにわかりあえる保証はどこにもない.あらずもがなの「発達障害」のレッテルをむやみに貼り付けるとかえって解決不能問題が生じるだけだろう.

けっして他人事ではないのだが,「発達障害」っていうレッテルを貼ったところで,“3σ” から大きく外れるような(積極的に介入して対処しないとヤバい)ケース以外はどうしようもないんじゃないかと思うけど.どんな人間集団の属性にも見られるごく自然な確率分布の “だいゔぁーしてぃ” ということで大目に見てよ.そういうことで,J-CASTニュース「東大生の4人に1人は「アスペルガー症候群」 元東大院生のツイートに現役も「マジだと思う」」(2016年2月4日)みたいな煽り記事には心底ガックリくるわけでして.“外れ値” 以外はほっといて.マジ他人事じゃないんで.

きわめて個人的な経験からいえば,生きづらい集団生活には関わりをもたずに独りで生きていくという選択肢はおおいに「あり」だと思う.

ワタクシは京都の府立高校(先年,統廃合でなくなってしまった)に在籍してはいたけど行かないことが多かった.よく卒業させてくれたと今でも感謝している.高校の学年が進むにつれてどんどん不登校になっていった.あるとき,ずいぶん長く欠席して,ひさしぶりに登校してみたら,校内に誰もいなくて,校外グラウンドから大きな歓声が聞こえてきた.ああそうか,体育大会をやってるのかと納得してそのまま帰宅した.ワタクシにとっては関係のない別世界のことね.体育の女教師は10段階評価の「1」という最低成績をワタクシに付けたけど,そんなことは知ったことではないのでそのまま放置した.大学入試に高校の内申書は何の関係もないから.

高校がワタクシを見放してくれたのか,それともワタクシが高校を見放したのかよくわからないが,結果的に高校の集団生活とはほとんど関わりをもたずに過ごすことができたのは幸いだった.独りで生きることが心地よいと実感できるようになったのはその時からだった.

高校時代の窮屈な学校生活を考えれば,大学に入ってからはワタクシ的には自由で快適だったなあ.駒場でも本郷でも「自分よりももっとヘンな人(学生もセンセイも)」がたくさんいたので,ワタクシのようにもともと “偏差” の大きな人にはとても生きやすい空間だった.その大きな理由は,自分がいくらヘンだと思っても,まわりを見回せばもっとヘンな人がいるからだ.ヘンである「ロールモデル」が身近に(たくさん)いるというのは精神的定位にとってとても大事なことだ.

以上,まったく一般化できない個人体験談だが,生きづらいと感じている人はムリして周囲に合わせる必要はまったくないと思う.独りで生きればいい.

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