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姉妹本3冊を書き終えて

2017年4月に出した『思考の体系学:分類と系統から見たダイアグラム論』を皮切りに,2018年4月刊行の『系統体系学の世界:生物学の哲学とたどった道のり』,そして翌5月刊行の『統計思考の世界:曼荼羅で読み解くデータ解析の基礎』と,この一年の間に3冊の単著を出すことができた.それぞれのコンパニオン・サイトに明記したように,版元こそちがっているが,これら3冊はその成立と内容から見てひとつの “単系統群” を構成する “姉妹本” である.ひたすら原稿を書いては同時並行でゲラ読みを進めるという「疾風怒濤」の月日がようやく過ぎたので,この機会に3冊の姉妹本たちの位置づけを備忘としてまとめておこう.

最後に出た『統計思考の世界』の謝辞のなかで,これら3冊の執筆の経緯について振り返ったが,あらためて要約すると次のようになる:

『統計思考の世界』—— 2009年10月に技術評論社から出版企画案が提示されたが,その後,実質的進捗はなく塩漬けのまま数年間が経過した.2015年12月再起動.農環研ウェブ高座 〈農業環境のための統計学〉連載時の原稿を踏まえて2016年5月執筆再開.同8月脱稿.計約600枚(400字詰).2017年7月に初校ゲラ.2018年2〜3月に再校ゲラ.同5月刊行.
『思考の体系学』—— 2015年12月に春秋社から出版企画案の提示.2016年8月から書き始め同12月脱稿.計約700枚(400字詰).2017年3月上旬初校ゲラ.同月下旬再校ゲラ.2017年4月刊行.
『系統体系学の世界』—— 2015年1月に勁草書房から出版企画案の提示.2017年5月執筆開始.同12月脱稿.計約1,300枚(400字詰).2018年2月初校ゲラ.同3月再校ゲラ.同4月刊行.

これら3冊の姉妹本の執筆時期と重なって他の著書や訳書も何冊か出版された:マニュエル・リマ[三中信宏訳]『The Book of Trees — 系統樹大全』(2015年3月,BNN新社),三中信宏『みなか先生といっしょに 統計学の王国を歩いてみよう』(2015年6月,羊土社),David M. Williams, Michael Schmitt, and Quentin D. Wheeler (eds.)『The Future of Phylogenetic Systematics』(2016年6月刊行,Cambridge University Press),中尾央・松木武彦・三中信宏(編著)『文化進化の考古学』(2017年8月,勁草書房),マニュエル・リマ[三中信宏監訳]『The Book of Circles — 円環大全』(2018年2月,BNN新社).しかし,これらはワタクシ的にはすべて “側枝” に位置づけられる本たちである.

では “主幹” の3冊は内容的にどのような相互関係があるのか?:

『統計思考の世界』は統計技法の本ではない.統計データ解析の出発点であるデータ可視化の理念はグラフィクス(ダイアグラム)という共通言語を介して『思考の体系学』と共有されている.一般論としての統計思考が生物体系学という個別分野でどのような役割を果たしてきたかは『系統体系学の世界』でくわしく論じた.
『思考の体系学』は分類と系統という観点から知識の体系化と可視化を支えてきたダイアグラムの理論構造の骨格とその肉付けについて考察した.本書で取り上げられた生物体系学の歴史的実例が埋め込まれた文脈は『系統体系学の世界』に示したとおりである.また,ダイアグラム論と統計グラフィクスとのつながりについては『統計思考の世界』で十全に論じた.
『系統体系学の世界』は生物体系学の科学史と科学哲学を論じた本である.体系化のための数理的背景については『思考の体系学』がテクニカルな参考資料と位置づけられる.同様に,分類構築と系統推定の統計的背景という点では『統計思考の世界』がもうひとつのテクニカルな参考資料となる.

つまり,3冊の姉妹本のどの2冊も残る1冊にとっての一般論あるいは各論を解説した “参考資料” という役割を与えられている.したがって,この3冊は明示的な引用あるいは非明示的な参照で緊密に結びついている.

『系統体系学の世界』のまえがきに書いたように,ワタクシが長年ともに生きてきた “本の系統樹” は「さらなる分岐進化と前進進化を繰り返しながら,その枝葉を今なお伸ばし続け」(『系統体系学の世界』, p. iii)ている.上の3冊の姉妹本はこの “本の系統樹” の上で運よく開花結実したが,新芽や若葉や小枝がこれからいったいどのように育っていくのかは,ワタクシ自身にはまだ予期できない.

とにもかくにも,総計2,600枚の原稿を3冊の姉妹本に分割して世に出すことができてワタクシ的にはホッとしている.あとは野となれ山となれ(『統計思考の世界』, p. 232).さて,次は何をぱぁ〜っとやらかしましょうかね.

[追記(2018年5月17日)]ワタクシの周りを見回しても,一般向けであれ専門書であれ,「本を書く」経験をしたことのある研究者はほとんどいない.ワタクシは,作家としての “ロールモデル” がほとんどいないまま,長年にわたって自分なりのスタイルで書き続けてきた.一冊の本を書くには,原著論文や総説記事の執筆とはまったく異なる心構えが必要なことは自明だが,それは単に「時間がかかる」というだけの理由ではない.

「定年後に時間ができたら本でも書くかな」などと言っている人が実際に本を書いたためしはない.確かにリタイアすれば時間はできるだろうが,本を書こうとする気力や実際にそれをやり遂げる体力は若い頃に比べれば有意に劣るだろう.何よりも一冊の本をつくりあげるだけの知力すらどんどんおぼつかなくなっているかもしれない.さらに,自分自身の病気のリスクとか,いつかかならずやってくる近親者の介護を考えれば,残された選択肢はたったひとつしかないではないか.すなわち「現役の研究者でいるうちに書くべき本は書いてしまえ」ということだ.

今から6年ほど前にワタクシは「深いフトコロが埋め立てられると」(2012年8月4日)という次の記事を書いた:

長期の夏休みもサバティカル制度もない独法研究員が本を一冊書くことは綱渡りを続けるようなもの.代償として多くのものを放置しているわけで,それに耐えられないと本は書けない.単著の本に関して言えば,ワタクシの場合,もっぱら出版社側からのオファーを受けて書き始めるので,それはたいへんありがたいと思う.ただし場合によっては「ごめんなさい」と断ることもある(すみませんすみません).ときどき「どうやって出版社を見つけるの?」と同僚から訊かれることがあるが,自分から原稿を持ち込んだことはぜんぜんないので答えようがない.
現在の独法研究所の置かれている状況だと,研究員が「本を書く環境」はさらに悪くなっているだろう.「糊しろ」や「溜め」を保証する人員あるいは研究資本がやせ細ってきたので,かつてはあったはずの「深いフトコロ」がどんどん埋め立てられている気がする.だから,「本を書くこと」の代償やリスクは以前よりも大きくなっているのかもしれない.いろいろあるけどそれでも本を書きますか?って感じ.同じ農学分野でも,農業経済だと「単著本」はとても評価が高いが,それ以外の(自然科学系の)農学分野だと,当然のことながら,査読付きペーパーが重視される.査読論文を書きながら単著本も書けというのは「二人分生きろ」ってことと同じ.
研究者としてキャリアが存続するかぎり,「積分範囲」はどんどん大きくなり,結果として自分の立ち位置が鳥瞰できるようになる.しかし,年取ってから懐古的に「守りの本」を書くよりも,まだ自分がどうなるかわからないときにしか書けない「攻めの本」の方がワクワク感が高い.そういう本を書けるチャンスがある研究者は機会を逃さず書いてほしいと思う.
論文と本では流れる時間が異なっているので,論文を書くときの「微分主義」的な研究者スタンスとともに,本を書くときの「積分主義」的な研究者人生観をもつ必要がある.

いま読み返してみると,ワタクシの基本線は当時とまったく変わっていないなあと実感する.多くの研究者たちが “潜在的作家” としての別軸の才能を発揮して,ワクワクする本をたくさん世に出してほしいと切に願う.

[追記(2019年2月16日)]つい最近発行された季刊『大学出版』最新号117号(2019年冬)pdf [open access] への寄稿記事:三中信宏「学術書を読む愉しみと書く楽しみ──私的経験から」(pp. 1-8)でも,研究者が本を書いたり読んだりするときの心構え(あるいは覚悟)について書いた.

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