研究者人生のロシアン・ルーレット

先日,日本経済新聞「大学で増殖する造語、「学群」「学域」「学環」って?」(2015年5月6日)という記事を目にした.大学の中での組織体制の名称は “高次分類” のカテゴリー名として適当にネーミングしてもぜんぜんかまわないだろう.すぐ近くの筑波大学もそういうネーミングをしている.もともとそういう高次カテゴリー自体が,大学側の理念はあっちに置いといて,そこに所属する学生にとっては何ら実質的な効力をもたないだろうから,どうでもいいということ.むしろ,奇をてらったネーミングは,これから入学や進学を考えている当事者にとってはかえって実体(実態)が見えなくなるのではないだろうか.

しかし,わが身を振り返ってみれば,大学の組織構造が可視化されていようが,不可視のままであろうが,そんなことは実はたいした問題ではない.むしろ,研究者としてキャリアをつくっていく途上で遭遇するさまざまな「偶然」をちゃんと受け入れて生き延びることができるかどうかの方がはるかに重要だろう.

ワタクシが卒業した学部は「農学部」に属する「農業生物学科」だったので,これ以上わかりやすいネーミングはなかったと思う.もちろん,とてもわかりやすいネーミングの学部・学科に入ったからといって,個人個人がその後とてもわかりやすいキャリアを積むことになるわけではけっしてない.ワタクシの場合は,シンプルな「農学部農業生物学科」のなかの「生物測定学研究室」をたまたま選んでしまったため,その後ぜんぜんシンプルではないキャリアを積むことになった.最初行こうとしていた研究室の教官にかなり “問題” があることを進学後に知ったので,次善の選択肢としてその研究室を選んだという事情がある.当時の「生物測定学研究室」はオーバードクターの巣窟で,年齢不詳な院生がたくさん棲息していた(その中にはのちに同じ研究所で同僚あるいは上司となったり,農業生物資源研究所理事長となったり,東北農業研究センター所長となったりした人たちがいた).そのまま大学院に進学するときも,担当教官から「大学院に進んでもどうにもなりませんよ」と念押しされた.こんな裏事情は見えなくても当然だっただろう.

学部や学科の「名」だけではぜんぜん手がかりにならない.「誰」がそこに所属していて,「何」をやっているのかを見ないと判断できない.今でこそ,ウェブサイトやSNS経由で,大学の「中」がある程度は見えるようになったが,ワタクシが大学に在籍していたころは「便覧」以外に進学先の内情を知るすべはなかった.入学先・進学先の内情(人材と研究)はわかった方が “平均” 的には望ましいし,大学の組織体制はすっきり可視化した方がわかりやすいかもしれないが,しかし,実際にそこに入ってみた自分がその後どうなるかは個別的・個人的な「たまたま」が大きく作用する.

たとえば,お目当ての研究室なり研究者がいる学部・学科に首尾よく入れたとしても,ちゃんと指導してもらえるかどうかはまったく別問題だろう.ケースバイケースで状況は変わるので賭け同然だ.ワタクシの場合は,所属研究室の指導教官が “たまたま” 卒論・修論・博論の指導をぜんぜんしなかった(昔はよくあった)ので,これ幸いと好き放題させてもらったあげく,今みたいなワタクシになってしまった.その「たまたま」がほんとうに良かったのかどうか今となってはもうわからない.

大学院を修了して農学博士の学位を取っても,ワタクシに職は何もなかった.当時はいまのポスドクのような任期付ポストがほとんどなかったので,それがゲットできなければ文字通りの無職無収入しか道はない.何度か公募に出しては落ち続け,5年後にやっと農業環境技術研究所の常勤職に就職できた.修士論文で手がけた形態測定学が選考採用で評価されたようだった.その修論テーマにしても,大学研究室のテーブルに丸善からの見計らい本として:Fred L. Bookstein 1978. The Measurement of Biological Shape and Shape Change(Springer-Verlag, Berlin, viii+191pp.)が “たまたま” 置かれていなかったら,きっとその後はちがう人生を歩んでいたにちがいない.偶然のつながりで “たまたま” 研究職ポストを得られたわけだ.

いまも在籍している農業環境技術研究所に配属されてからも,もともとが生物統計学というマイナーな研究分野だったので,独り仕事と独り言の毎日が延々と続く. “たまたま” 参加した国際会議で知己を得たり, “たまたま” 買った専門書に刺激されたり, “たまたま” 参加した学会で新たな展開のきっかけをつかんだりという無数の「たまたま」のつながりが今のワタクシを形づくっている.歴史に「if」が意味をもたないように,ワタクシの個人史にも「if」は考えられない.時空的にユニークな存在としていまここにいる.

まさにロシアン・ルーレットと同じく,研究者の人生航路は賭け事のように “たまたま” 決まる.大学から大学院さらにその後のキャリア形成で遭遇したさまざまな幸運・不運・悪運・偶然・棚ぼたなどの個別的かつ唯一的事象の連続が研究者人生を良くも悪くも方向づけしたことを実感する.このロシアン・ルーレットを楽しめる学生は生き延びられる.進路選択を誤ったとか研究資金が調達できなかったとか人事公募に外れたとか研究ポストが不安定だとかいろんな “フシアワセ” は,運命的な「必然」ではなく「たまたま」だと思えるようになれば,きっとしぶとく生きていける.しっかりアンテナを張って,次のチャンスをつかみ取ること.

実際のロシアン・ルーレットは当たれば一巻の終わりだが,人生のロシアン・ルーレットはたとえ当たってもその先がまだまだずっと続く.

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