装甲騎兵ボトムズ考察2-間奏-

(この考察は『装甲騎兵ボトムズ-闇の只中で輝く光Ⅰ』の続編ですので、未読の方はそちらからお読みいただけると幸いです。全文無料で読める設定にしてあります)

2.あの世とこの世、二つの神の思弁とグノーシスの衝動-
 ヨーロッパの哲学的伝統を一番無難に総体的に特徴づければ、それはプラトンにつけられた一連の脚注であるということだ。(アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド)

 かくも賞讃されるプラトンよ。汝は我々に、つくり話だけしてくれ、詭弁のみを弄したと思う。プラトンよ、あなたは知らないかも知れぬが、害をなしたのだ。(ヴォルテール)

 我々は、グノーシス文書で語られるところの「他所もの」という概念と同じ意味がキリコに見て取れるということを考察することによって、『装甲騎兵ボトムズ』の世界観が、諸々のグノーシス文書と表現方法が異なるとはいえ、グノーシス文書のそれの擬態的なものであることを抽出できるということを見ることになった。グノーシス文書における「いのち」、「光」等が元々他所ものであること、その帰属先・郷里は「この世」の「外側に」、「彼方に」、つまり「あの世」にある、ということを示していたのと同じように、キリコも本編最後は自らの帰属先をそこに求めた。このことが表しているのは、この世には絶対的な外側・彼方があるという観念が、この世そのものの周り全体を閉じて境界を定めているということである。この世に中にあらゆる現存するもの、つまり星々、星辰、銀河、そして宇宙そのものはこの世に「含まれている」。「含まれている」とは、そのまま「閉じ込められている」ということを意味する。この閉じこめられた「この世」は、眩暈を起こさんばかりに巨大であるが、しかし存在の絶対的空間の中では有限である。ここで提示したいのは、『装甲騎兵ボトムズ』の世界を、グノーシス文書が描き出した「この世」の見方のごとく捉えること、つまり閉じこめられた世界としての「この世」を一つの権力体系として、力を具え、傾向性を帯び、強制的に行動する一つの生命体であるかのように捉え、かつこのような「この世」を、「あの世」とは根本的に対立するものとして捉えるということである。私はここで、「間奏」として、「ボトムズ≒グノーシス」的な「この世」と「あの世」の区別を我々の眼前にはっきりと据えておくために、アーサー・O・ラヴジョイが『存在の大いなる連鎖』においてプラトン以来西洋の哲学・思想・宗教において二千年以上持続しているということを例証しながら明らかにした「この世的性質」と「あの世的性質」という「単位観念」の定義、及びそのような観念が常に持続的に内包している「この世的傾向」と「あの世的傾向」との間に孕んでいる問題について取り上げておこうと思う。これを取り上げる意義は、グノーシス的な「この世」と「あの世」の区別が、そもそもはプラトン哲学のそれの「擬態」であると考えられているからである。

 ラヴジョイは『存在の大いなる連鎖』において、観念の集合の歴史的考察を行うにあたって、まず、プラトンとそのプラトン的伝統とに、「あの世的な性質」と「この世的な性質」との間に二つの対立する大きな傾向があり、「裂け目」があるということに注目している。ラヴジョイはまず、「あの世的な性質」について次のように述べている。「「あの世的な性質」という時に――哲学的または宗教的傾向の中にある基本的な対立を示すのにその言葉は不可欠であると思うが、その意味において言う時に――私は次のような信念を指す。すなわち、まさしく真であるものと真に善なるものはその本質的性格において人間の自然の生活、人間の普通の経験――どんなに正常にせよ、どんなに知的であるにせよ、どんなに幸運にせよ――において見いだされるものとは根本的に対立するという信念を意味する。我々が今そしてここで知る世界は――多様で移ろいやすく、事物と関係との永遠の流動状態、生まれたその瞬間に無になってしまうような思想と感情の絶えず変わる万華鏡であるが――あの世的な精神の持ち主にとってはその中に何の実体も持たないように思われる。感覚の対象、経験的な科学知識の対象すら不安定で偶然的で常に他の事物との関係に論理的に還元されていき、それらの事物も検討されると同様に相対的でつかみどころがないことがわかる。これらの対象についての我々の判断は多くの民族と多くの時代の哲学者にとっては、我々を必然的に混乱と矛盾の泥沼に引きずり込むように思われてきた。そして――言い古されたことであるが――自然の生活の喜びは、青年は別にしても老人が発見するように、儚いし人を欺く、しかしあの世的な哲学によって理解されるところによれば、人間の意志は或る最終的な、不動不変な、本質的な、完全に満足させる善を求めるだけではなく見出すこともできる。ちょうど人間の理性が或る安定した、決定した、統一した、自足した、自明である、観照の対象を求めそして見出すことができるように。しかしそのどちらもこの世に見出されなくて、この世とは単に程度と細部においてではなく本質的な性質において異なる「より高い」領域においてのみ見出される。このもう一つの領域が、たとえ物質の中に閉じ込められ、感覚的なものに没頭し、行動計画で忙しく、個人的感情に夢中になっている人々にとっては冷く貧弱で興味も歓喜も出さぬように見えようとも、感情よりの解脱または内省によって解放されている人々にとっては哲学的探究の最終目的であるし、人間の知性または情念がこの世にありながら影を追い求めるのを止め、休息を見出だせる唯一の領域である」(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.43-44)。これがラヴジョイによれば、歴史の大部分を通じて開花した人類の大部分が持つ支配的な「あの世的な哲学」の一般的信条である。そっくりそのままを長々しく引用して申し訳ないが、「あの世的な性質」と対照をなし、またその「あの世的な哲学」が成立する背景でもある「この世的な性質」との区別を我々の眼前にはっきりと据えておくためには必要なことと考えるので、敢えてそうさせていただくことをお許し願いたい。私は今しがた「この世的な性質」が「あの世的な性質」と対照をなし、またその哲学が成立する背景であると述べたが、ラヴジョイによればまさに「この世的な性質」はどれ一つをとってみても、真にあの世的な存在論を生み出す可能性をいつも帯びている。その理由は、「単にこの世界(この世的な性質)が、時間的な性質を持ち永遠に不完全であること、この世界の構成要素の全てが一見して相対的でどの要素も思惟によって名付けられるような自足した明瞭さを欠いていること、世界は断片的で不完全で存在理由を明白に必然的に持たないつまらない存在のでたらめの集合にすぎないと見えること、我々の世界理解は五感という欺瞞的な器官を通じてなされ、五感はそれ自体においてもまたそれに基づきそれが与える条件によって規定される推論の構成においてすら主観性という疑惑から免れないこと、世界が複雑であり思索的理性につきまとう統一性の渇望に従わないこと、または――それほど推論をしない人の場合には――世界が実在する「感じ」がなくなる経験をときどきし、――それは我々から落ちゆくもの、消え行くもの、未だ実現されざる世界を彷徨うものの持つ全くの不安である――それ故真実の存在、魂が憩える世界は、とにかく「こういうもの全て」以外のものであるに違いないという確信が[…]圧倒的になる」からである(同p.47-48)。このように把握される「この世的な性質」は、価値の領域においても常に、根本的に悪であるとか闇であるとか無価値であるとして片付けられる可能性をいつも帯びている。その理由は、「世界の展開が世界を全体として把握しようとすると想像力に対し響きと怒りに満ちてはいるが、無意味でしまりがなく、退屈な芝居――同じ話の無意味な繰り返しであるか、いずれともなく始まり、無限の時間の中で進行してきたのにそれに相応しいクライマックスには到達せず、理解可能の目的に近づきもしない、限りない変化のお話――として姿を現すからであるか、それとも時間の中で生じ時間の中の目的に結びつけられた全ての欲求が、経験によれば不満の果てしない再生を惹き起こすだけであると知られているし、またその欲求の辿る過程の不可解な儚さに必然的にあずかっていると理解されるからである。またはかなりの数の人の中に、真の神秘家の忘我の境地に達することが出来ない人の中にも事物の相互の外在性や自分自身が切り離されて制限されていることに対して繰り返される感情的な反乱や自意識の負担から逃げ出し「私が私だということを忘れ」全ての分裂感と違和感とが超越されるような一体感の中に自らを忘れたい欲求があるからである」(同p.48-49)。

 『国家』においてプラトンは「イデアのイデア」を導入した。「イデアのイデア」とは「善そのもの(絶対的善)」であり、また「フュトウールゴス(本質製作者)」、「ト・ヘン(一者)」などとと呼ばれる「神そのもの」と同一である。それは「全ての現実の中で最も疑うことのできないもの」であり、程度の差はあれどその性質を分有する個々の変化する存在とは区別される「本質」であり、それゆえにそれは全てのイデアに共通の性質を持っている。この「善そのもの」=「神そのもの」の性質の中で最も根本的なものは永遠性と不変性であり、その性質は「この世的な性質」とは正反対、つまり「あの世的なもの」であって、それを認識するためには、「魂全体とともに生起するものより離れて存在するものとその最も素晴らしい部分との観照に耐え得るように向きを変えられなければならない」(プラトン『国家』518C)。「善そのもの」=「神そのもの」の性質は普通の言語の形式では言いがたい、「表現しがたい美」であって、他の思考の対象に適用されるカテゴリーの中で一番普遍的なものにも含まれ得ないし、他の物が実在性を持つと言う意味での実在性とは全然同一ではなくて、「威厳と力において実在を超越している」(プラトン『国家』509B)。そして「この世的な性質」とは正反対である「イデアのイデア」=「善そのもの」=「神そのもの」=「ト・ヘン」=「フュトウールゴス」は欲求の普遍的対象として、全ての魂を自らに惹きつけるものとされ、この世の生活においてはそれを観照することが人間の主たる善にほかならないとされた。このような「善そのもの」=「神そのもの」は、プラトンにおいて更にその本質が「アウタルケイア(自己充足)」即ち「自らの外側にあるものへの全ての依存からの脱却」にあるとも説明される。「善なるものを所有する者は常にあらゆる点で完全な充足をし、他の何ものをも必要としない」(プラトン『ピレボス』60C)。このように説明されるプラトンの「イデアのイデア」たる「善そのもの」=「神そのもの」の「本質」の意味は、アリストテレスの神学においてもたちまち表面に出てきているし、また中世哲学神学のほとんど、また近代のプラトン的な詩人や哲学者などのほとんど全ての神の一要素または様相になっている。その思弁が二千年以上持続しているということについては、例を挙げればキリが無いので、数々の例から、ラヴジョイが引用しているアリストテレスとC・E・M・ジョウドの記述を併記しておく。「自足している者は、他人の奉仕、他人の愛憎または社会生活を必要としない。なぜなら一人で生きていけるからだ。このことは神の場合に特に明らかである。神は何も必要としない故に、明らかに神は友人を必要とすることはあり得ないし、望みもしないであろう」(アリストテレス『エウデモス倫理学』七章1244B-1245B[=ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.68])。「永遠であり、完全であると考えられながら、変化する不完全な世界や、そこに済む変化し不完全な人間や、または宇宙に活力を与える原理と関係を結ぶよう中身は、崇拝される諸性質が減ってしまう。善や美のように、神も、もし存在するならば、非人間的価値を有するものでなければならず、その意義は神に憧れる人間とまさに似ていないということにならなければならない。神は人間により知られるかもしれず、人間が進化し発達するにつれ神は益々知られるようになるかもしれない、……しかし神自身はそのような期待によっては動かされない。……神は自分を目指す人間の動きを知らない。……明白なことであるが、神は、もし我々の崇拝にふさわしい対象であるためには、神を拝する世界によって汚されずにいなければならない」(C・E・M・ジョウド『現代科学の哲学的側面』p.331-332[=ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.69-70])。

 さて、このような「善そのもの」=「神そのもの」の本質が「自己充足」であるということについてのプラトンに端を発する思弁は、暗黙にではあるが、常に奇妙な観念を内包させたまま、西洋の哲学・宗教・思想を二千年以上も強力に支配することとなった。その奇妙な観念について、ラヴジョイは次のように言っている。「もし「神」という時に、――他の多くの一見相容れないものもであるが――最高度の善であり、または永遠に最高度に善を所有する存在を意味するならば、そしてもし「善」が絶対的な自己充足であるならば、そしてもし全ての不完全で有限な時間的な存在が神的な本質とは同一視されえないとするならば、そういう存在は――即ち時間の中で感知し得る宇宙全体及びどんな意味でも真に自己充足していない意識のある存在(人間)、全ての存在は、――実在になんらの美点をも付け加えることができないということが明らかな結論として出てくる。善の充足性は神において達成されてしまっているのであり、「被造物」は何も付け加えないのだ。神の立場からすればそれは価値が無い。被造物が存在しなくても宇宙の価値は下がらないだろう。[…](我々はプラトンの)学説のこの部分が、明瞭に意味するところの中に、神は宇宙を必要としないし、宇宙と宇宙で起こること全てに対しては無関心であると言う何度も繰り返された哲学的神学者の定理の第一の源を認めなければならない」(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.67-68)。

 もちろんプラトン自身はこのような結論をはっきりと明言するようなことはしなかった。むしろ彼自身は、そういう結論をはっきりとは引き出さなかったという点に重要な意味を持たせている。プラトン自身の思弁は単に「あの世的な性質」についてのみにとどまらなかった。彼はそれについての思弁をその頂点に達せさせるや否や、その思弁の舵を正反対の方向にきった、つまり「この世的な性質(特に健康的な種類の)」へとその思弁の進路を逆転させたのであった。彼はそれを、『ティマイオス』において、「絶対者のより高い領域から、彼の心が気分のせいで、そして恐らく初期に熱心に舞い上がって後にした、より低い世界への帰還の旅」(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.72)のように描き出している。ラヴジョイによれば、プラトンの対話篇は、ありとあらゆる哲学観念群に次の二つの密接に関係し合う観念を導入したとされる。

①なぜ永遠なるイデア界、更には唯一最高のイデア[=「イデアのイデア」「善そのもの」「神そのもの」]の他に、生成の世界があるのかという問に対する答え。
②感覚に映じ時間のある世界を構成する存在の種類の数をいかなる原理が決定するのかという問いに対する答え。

 二番目の問いの答えはプラトンにとっては第一の問に対する答えの中に含まれている。彼はまず第一の問の答えについて、つまり生成の世界があることの充足理由律の妥当性について、『ティマイオス』のティマイオスに次のように語らせている。「彼が善であり、善であるものにあっては他の何物に対しても羨望の念が起こらない。羨望がないので彼は万物ができるだけ自分に似ることを望んだのだ。故にこのことがとりわけ生成と宇宙との最高の創造原理であるとして賢者より受け入れるのは全く正しいであろう」(プラトン『ティマイオス』29-30)。『ティマイオス』はいわば世界創造の神話であるが、ここで「善である」とされている存在は、名目的にはこの世界創造の神話の主人公である擬人化された世界創造者、即ち「デーミウールゴス」である。しかし、『ティマイオス』は『国家』を補うものとされているが、もし『国家』と『ティマイオス』の教説が相容れるものだと仮定するとなると、『ティマイオス』の神話の細かい点とこの「デーミウールゴス」に与えられている特徴と活動とのほとんどが文字通りに受け取ることが出来ない。既に挙げたことであるが、『国家』において全ての存在の根拠と源とされたのは「イデアのイデア」=「善そのもの」=「神そのもの」=「ト・ヘン」=「フュトウールゴス」であった。この「フュトウールゴス」が「最善」と言われるところの本質は「アウタルケイア」であったわけだが、それを『ティマイオス』において「最善の魂」と言われるところの「デーミウールゴス」の「最善」の意味にそのまま照らしあわせようとすれば、「デーミウールゴス」のそれはどうしても「最善」=「アウタルケイア」的であるとみなすことはできない。ここに、プラトンは「善」の本質的意味を逆転させ、かつ『国家』で語ったところの「善」の本質的意味をも失わせないよう、「善」の本質的意味を二重化させ、その二つの意味を妥協させたり、一方の意味から一方の意味を引き出そうと努めていたことをうかがわせるところがある。ここでプラトンの思弁における生成の世界があることの充足理由律の妥当性をまとめると次のようになる。「その完成度が増減の余地のない自己充足せる存在はそれ自体以外のものを羨むことはありえない」(ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』p.76)ので「善そのもの」は万物ができるだけ自分に似ることを望んで、それ自身を惜しみなく撒き散らしたのだ、と。「最善」の本質的意味が二重化されることによって、プラトンの対話篇においては、一者(ト・ヘン)であったはずのところの神概念のなかにおいて、アウタルケイアがその本質である「フュトウールゴス」と、世界創造者「デーミウールゴス」という二つの神が内在していることになっている。プラトンはこれをもって生成の世界の充足理由律の妥当性を主張したことになる。そして、プラトンにおいては第二の問に対する答えも同様な答え方がなされる。プラトンは宇宙創造は一つでしかありえないと論じる。それは創造された宇宙がイデア界の余すところのない複製であるからだとされる。宇宙は「他のすべての叡智的存在」の写しを含んでいる。だからモデルの中にはそれに似せてもう一つの世界が形成されるべきものは残されていないというわけである。そして、『ティマイオス』の世界創造の神話においてデーミウールゴスは、あらゆる種類の不死のものが生み出されたあとに、死すべきものがまだ創造されていないことに気づく。宇宙が完全になるためにはあらゆる種類の生物を含まねばならないが、死すべきものが創造されていないということはそれを含まないことになり、宇宙には欠陥があることになる、故に全体が真実に完全になるためにデーミウールゴスは、既に創造されている神々に死すべき存在を神々に似せて生み出す仕事を委託したのだと。このようにして宇宙は死すべき生けるものと、不死の生けるものとにより完全に善きもので「充満」した…、というのがプラトンの思弁である。つまり、『ティマイオス』の「デーミウールゴス」は、宇宙にはありとあらゆる「もの」、不死なる神々、そして人間も含めた死すべき生物等で「充満」している、という事実を単に根拠付ける必要に迫られたことから語られた、即ちその多様性を容認するために語られたものであったといえる。

 プラトンにおいてはこのように二つの充足理由律が妥当性を有するものとして語られたわけであるが、ラヴジョイが何度も指摘しているように、このようなプラトンの「善」の本質的意味を二重化させた「二つの神」の弁証法による充足理由律が妥当であるという主張は、既に挙げた『存在の大いなる連鎖』のp.67-68の引用を見ても分かる通り、プラトンの中では妥当であるように思えても、それは誰をも納得させるようなものではなかった。このプラトンの議論は、歴史上において、相容れるはずのないアリストテレスの哲学、ユダヤ教、キリスト教の思想と混淆・融合していくにあたり、よりその矛盾の度合を強めていくことにもなり、そのように納得できるようなものではなくなっていき、多くの「反抗者」を生み出していくことになる。それは逆にその「擁護者」を生み出していくことにもなる。これは根本的には「神義論」に関わることになっていく。プラトンがその対話篇で展開した二つの充足理由律の妥当性について納得がいかなかったのは、オリエント・ヘレニズムの混淆思想としてのグノーシス的な現存在の根本的姿勢においても例外ではなかったようである。グノーシス文書においてはプラトン哲学の思弁に寄生しながらも、彼の思弁ほど納得の行かないものはなかったと思われるほどの「反プラトン主義≠非プラトン主義」的な反抗的な思弁が、雑でありながらも執拗に、「擬態」として見出される。グノーシス的な現存在の根本的姿勢における、ハンス・ヨナスが「グノーシスの衝動」ないし「グノーシスの革命的要素」というところのものは、古代において通用していた既存の価値基準を紛れもない形で転覆させる。そのAkosmisch(無宇宙(世界)論的=反宇宙(世界)論的)な二元論は、先に引用したラヴジョイのいうところの「あの世的な性質」と「この世的な性質」の一般的信条を、「光と闇」ないし「善と悪」の二元論として、徹底的に、ラディカルな思弁で極端化させたかたちになっている。グノーシスの衝動はプラトンの思弁において内在はしていたが、いわば「有耶無耶にされている」といってもよい「この世」と「あの世」の思弁、ないし「二つの神」の思弁に楔の刃を打ち込むかのごとく、はっきりと分断させた。その分断は、「神そのもの」と「現象としての神」を二元論的に分断させるものでもあった。プラトン主義者にとって「あの世的なもの」そのものといえる「神そのもの」=「善そのもの」の本質はアウタルケイアであったわけだが、グノーシスの衝動はこれを肯定しながら、プラトンの「フュトウールゴス」を真の至高神に、そして「この世」の創造者たるデーミウールゴスを、「善」とは位置づけず、むしろ悪霊群(アルコンテス・番天使等)の首領たる「偽りの神」に位置づけて、これを旧約聖書の現象としての神YHWHと同一視したのである。

 我々が先に「他所ものとしてのキリコ」の章において見た「他所もの」の概念は、グノーシスのAkosmischendualismus(反宇宙的=無宇宙的二元論)の「光と闇」の象徴表現と密接に結びついている。「第一の他所ものなるいのち」は同時に「光の王」であり、彼が支配するとされる超越的世界(あの世)は「輝く光の世界であって闇がなく、柔和の世界であって反抗がなく、誠実の世界であって騒ぎも混乱もなく、永遠のいのちの世界であって朽ちることも死もなく、善の世界であって悪がない。[…](その世界は)純粋な世界であって悪しき混合がない」(G10)。この光の超越的世界に対立するのが「この世」にあたる「闇の世界」である。プラトンの思弁において「善きもの」で「充満」しているとされた「この世」はむしろ「善きもの」としての意味では「欠乏」しているとされ、「闇」ないし「悪」で「充満」しているとされた。「それは隅々まで悪と[…]食い尽くす猛火と[…]偽りと詐欺に満ちている。[…]それは騒ぎと混乱ばかりで堅固がない世界、闇ばかりで光がない世界[…]死ばかりで永遠のいのちがない世界、善なるものが朽ち果て、計画が実現しない世界である」(G14)。『フィフリスト』が採録しているマニの教えの冒頭にも、「世界の始原をなすのはニつのものであって、一つは光、もう一つは闇である」とある。「この世」は光と闇とが混合しあっているのであり、目下は「闇」の勢力のほうが優勢である。「この世」の本来の実体は「闇」であって、「光」はその中では「他所もの」=「他所からの混じり物」である。「この世の輝きには混じり物が入っているが、あの世の輝きはまばゆいばかりで濁りがない」(G13)。現下の、この「他所もの」=「光」が「闇」との「混合」という状況に投げ込まれている「この世」のイメージは次のように記される。「活ける水よ、来たれ、そして濁った水と混じり合え」(G15)。「他所もの」は「活ける水」とも「活ける火」「心地よい風」「輝ける光」などとも言い表される。輝ける光は薄暗い闇の中に、活ける水は濁った水の中に、活ける火は食い尽くす猛火の中に、心地良い風は荒れ狂う風の中へ投げ込まれている(J56)。このような「他所もの」の現下の状況を「悪夢」に例える文書も存在する。「彼らには無知の結果としての恐怖と混乱と不安定と二心と分裂によって働く多くの幻想と虚しい虚構があった。ちょうど眠りに移され、混乱した夢の中にあったかのように。或いはそれは、彼らが逃げて行く場所であり、或いは、他人を迫害した果てに無力となり、或いは、殴り合いの只中にあり、或いは自らぶん殴られ、或いは高所から転落し、或いは翼もないのに空中に飛び上がる。また或いは、人々は誰も迫害するものがいないのに彼らを殺すかのようである。或いは逆に、彼ら自身が彼らに近い者たちを殺すかのようなのだ。なぜなら、彼らはその人たちの血に塗れているからである。[…]すべてこれらの怖ろしい目に、夢の中で遭いながら、彼らはもう何一つ眼前に見ることができない。彼らはこれら全ての混乱の直中にあった。これらそのものは無であった」(『真理の福音』§22)。これら諸々の象徴表現は、まさに「他所もの」が「この世」において投げ込まれている状況が「地獄」であると言い表すに相応しい。この「他所もの」の現下の状況を表しているのが、先の章でキリコにおける自己疎外の極致を表すものだと述べておいた『炎のさだめ』の「炎の匂い染み付いて咽る」、「揺らめく影は甦る悪夢」と謳われている箇所に該当する。この絶望的状況に直面し、自己疎外の極致に陥った「他所もの」としてのキリコの魂の叫びを表したものが、「戦いは飽きたんだ!」と繰り返す『炎のさだめ』の歌詞である。グノーシスの衝動に駆られた者たちもまたこの自己疎外の極致としての絶望的状況にあって次のような魂の叫びをあげている。「一体いつまで私は活ける水を濁った水に注がねばならないのか。[…]一体いつまで私は真珠を一時の儚いものに委ねなければならないのか」(J197)。「濁った水の中に入った時、活ける水は叫んで泣いた」(J216)。「彼の活ける火の姿が変わった。[…]その輝きが変わった。その輝きに欠乏と不足が生じた。[…]見よ、あの他所ものの輝きがどのように減ってしまったかを」(G98)。「一体私はなおどれほどの永きにわたって耐え抜きながらこの世に住み続けるのか!」(G458)。『炎のさだめ』の「炎」がまさに「他所もの」の象徴表現であり、かつキリコを表しているに相応しい象徴表現であるとすれば、「この世」という「地獄」に投げ入れられた自己疎外の極致としての絶望的状況(それが他所ものの背負うさだめでもある)や、それに直面しての魂の叫びの証言の数々に関して、これらの象徴表現にもまた「ボトムズ≒グノーシス」という「擬態」関係を見出すことが可能であろう。そして、以上のイメージ群と関連して、プラトンが彼の対話篇に導入した問い及びその問に対する答えに対応するグノーシスの革命的要素もみいだすことができる。それは「第一のいのち」=「唯一の光」から、いくうかの部分が切り離されて、闇の中へ混ぜ合わされた、というイメージとして反転されている。もともと一体であったものが引きちぎられて、多数性へと引き渡されてしまったのだと。

※注:「G」はGinza, Der Schatz oder das große Buch der Mandäer, Göttingen 1925、「J」はDas Johannesbuch der Mandäer, Gießen 1925。数字は頁。筆者はいずれもハンス・ヨナスの『グノーシスと古代末期の精神』を参照している。

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