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「仕事ができる人と思われたい」という欲求に隠れていたもの

社会人になって数年、私の仕事の面における行動原理には、「仕事ができる人と思われたい」という気持ちが少なからずあった。
「お、この人わかってるじゃん」と思われたい。「この程度もできないのか」とがっかりされたくない。私の行動の軸には「他者に承認されたい」という欲求があった。

思い返せば昔からそうだった。勉強を頑張るのも、部活を頑張るのも、根底には常に、他者からの視線があった。

少し自分語りをしてしまうが、なぜそのような「癖」を持ってしまったか、原因はわかっている。中学生の時分、当時バスケ部員だった私は、顧問の先生に怒鳴られボールを投げつけられ、大変厳しく「指導」された。ぼんやりしているといつその「指導」が飛んでくるかわからない。引っ込み思案だった私は、先生の逆鱗に触れることにいつも恐怖していた。先輩が卒業して後輩ができると、主将になり後輩を引っ張る立場になった。(主将になったのは同学年の部員が他にいなかったからで、決して、バスケがうまかったからとかリーダーに向いていたからとかではない)後輩は気が強い子が多く、何かあるたびに胃に穴が開きそうだった。先生の顔色に加えて、後輩の顔色も伺う日々。(今思えば、よく最後までやり抜いた。根性あるわ)

そんな日々を過ごすうちに、いつしか自分の行動が、「あの先生にどう思われるか」に支配されるようになった。中学を卒業するとそれは、「他人にどう思われるか」にとって変わった。

そのことに気がついたのは、つい最近の話だ。他者からどう思われるかを気にすることは、生まれついての自分の「思考の癖」だと思っていた。それが根っこを掘っていくと、子供のころの自分のトラウマに行き当たったのだ。

昔語りはこれくらいにして話を戻そう。

「他者からどう思われるか」という不安は、「他者から認められたい」欲を生む。社会人になった途端、その欲が「仕事ができる人と思われたい」という形で現れたのだろう。

冒頭で、『「仕事ができる人と思われたい」という気持ちが少なからずあった。』とあえて過去形を使ってみたが、「ある」でもあることを正直に告白する。これを「あった」にするために、最近はあえてその気持ちと向き合っている。

例えば会議で発言しようと思った時、それが自分の中のどの行動原理からくる発言かを考える。これから発しようとする言葉は、純粋な問題点の指摘なのか、それとも自分の存在を、有能さをアピールするためのものなのか。問題点の指摘であったとしても、自己の能力を示したいという欲求が何割紛れ込んだ発言なのか。

これは今思いついた自論だが、その欲求の割合は、言葉の端に、表情に、体の動きに表出する。無意識のうちに、上から抑圧するような声音になったり、相手を小馬鹿にするような含み笑いが出たりする。

もし、そのような無意識を抑えられずに表に出してしまったら、私が次に感じるのは、相手に排泄物を投げつけてしまったような気まずさだ。他者承認を得たいがゆえの自己満足。発言の総体から意義を差し引いて残った、私という身体から放出された自己満足の塊は、相手にとっては汚物以外の何物でもないだろう。

「仕事ができる人に思われる」は目的ではなく、結果として他者から得る評価でなければいけない。仕事を頑張る行動原理がそれであっては、結局自分が苦しいだけだと今は思う。他者の心の中が覗けない以上、自分が欲する他者承認が、本当に満たされていることは確認できない。ゆえに、他者承認の欲求が満たされることは永遠にない。

他者承認の欲求を、少しずつ手放していこう。同時に、「他者からどう思われるか」という視点を自分の軸から外して、自分の気持ちを軸に行動してみよう。

誰に認められずとも、私はここに存在していいし、やりたいことをやればいいのだ。
と、少しだけ大人になった私は、中学生の自分に語りかけてみる。


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