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長靴とラーメンの話。

実家を建築中だったころのお話。
「おもしろい話」といえば、いつも頭に浮かぶ。
「晴」「雨」2つの話がある。

私の実家は、東海道線の最寄り駅から、自転車で20分くらいの場所にある。

河川に挟まれた地域で、明治初期に治水対策されるまでは、度重なる洪水に悩まされたと伝わる場所だ。

小高い堤防にかかる橋を渡った先が、私の育った地域だ。
その橋の「落成式」に出席し、幼稚園のクラス全員で撮影した写真が残っている。

私は、橋を渡る時に見える、水田が広がる景色が、大好きだった。

橋は、新幹線の線路と並行していた。
田植えの時期は、水田にたくさん水が入っていて、
夜は、新幹線の光が水面に反射してきれいだった。
緑色の稲が、風の通り道を撫でているように、揺れる様子。
稲穂が実る時期の、豊かな黄色。

ひろがる水田を貫くように、道路が通っていて、道路の終点近くに実家がある。
数軒の家がまとまっていて、その一番端が我が家だ。

我が家は父と母と、2歳下の妹が1人の、4人家族。

長女の私が幼稚園に入るタイミングで引っ越しができるように、土地を買って家を建てることになった。

それまで住んでいたのは、父の会社の社宅で、橋の反対側の地区にあった。
社宅と新しい家は、歩いて30分、車で5分くらい離れていた。

建築中はよく、現場に遊びに行った。
母の兄弟、私にとっては叔父さんが大工さんだったので、気軽に現場に行き、休みの日には、カギを使って自由に家の中に入ることができた。

「晴れの日」は、母と妹と3人で出かけた。

当時、母は、車の免許を持っていなかったので、徒歩で出掛けた。
2歳の妹は、乳母車に乗っていた。
私は、お気に入りの、赤い長靴を履いていた。
そのころ、友達の間で、長靴がブームだったのだ。天候を問わずいつも履いていた。

幼稚園入園前の、4才の子供にとって、現場までの徒歩30分は長い。
そして、長靴で歩く長距離はつらい。

水田の真ん中を貫いている道は、ようやく2車線といえるような道幅で、
当時は舗装されていなかった。
長靴では歩きにくく、タイヤが道の石に当たるので、乳母車は押しにくかった。

姉の私は、歩き疲れても、乳母車には乗せてもらえない。
なぜなら、2人乗せてしまうと重くて、押す母が大変だからである。

遠くに家が見えるのに。
歩いてもあるいても、なかなかたどりつかないのがつらかった。

「ヴォルガの舟歌」という曲がある。
日本では、1960年代に「ボニージャックス」という男性4人のコーラスグループがカバーした「ロシア民謡」だ。
ロシアにある、ヴォルガ川を下った船を上流に戻すために、陸地を引いて歩く様子を歌った曲で、「エイコーラー エイコーラ―」の歌詞が印象的だ。

私は、歩きながらこの曲を口ずさんでいた。
おとぎ話に出てくる、王様につかえる人々になった気持ちがしていた。

幼い子供二人をつれて、往復で1時間かかる場所まで歩いて出かけるなんて、母ガッツあったな、と思う。

中高生になり、自転車通学をしていたが、向かい風の時は「エイコーラ」をおもいだしていた。

父と現場に出かける時は、車だった。

父が「日曜日は建築現場がお休みだから、新しい家でキャンプみたいに食事を作って食べよう」と言い出した。
しかし、その日は「雨降り」だったので、外だと濡れてしまう。
そのため、建築中の家の中で調理した。
カセットコンロを持参して、「コッヘル」というアルミの鍋を使い、ラーメンを煮た。

炊事した場所は、のちに私たち姉妹の部屋になった部屋で、「和室」だった。

壁は「塗り壁」で、下地を作っているところだった。
内部に、竹で編んだ格子が使われていた。
竹の格子が入っているなんて、「日本昔話に出てくる家みたい」と思った。

床は、畳を敷く前の「板張り」だった。
そこに土足で入り込み、ラーメンを作って食べた。
家の中に土足で入り、火を使ったことが驚きで、鍋で作ったラーメンは、すごくおいしく感じた。

床には、靴の跡や、鍋のまるい跡がついてしまった。
あの跡は、のちに乾燥して消えただろうか。

高校の日本史の教科書に載っていた、「法隆寺」の建物の下地に残っているという「顔の落書き」の写真を見て、私は、我が家の床板の、ラーメンの跡を思い出した。

あれは「何ラーメン」だったのかが、長年の疑問だった。

狙って色々試してみても、何かが違う。

しかし、妊娠中にあのラーメンの正体が分かった。

つわりらしいつわりがなく、常に次食べたいメニューを考えて、思いついたら何としても手に入れていたあの頃。
どうしてもラーメンが食べたくなり、早く食べたいのでお湯を注ぐだけでも食べられる「日清のチキンラーメン」5個パックを購入し、早く食べたいので鍋を使わずどんぶりにお湯を注いだ。
それなのに出来上がりを待つ間に何時間も寝てしまい、のびにのびたそれを口にして分かった。

あのラーメンは、「日清のチキンラーメン」だったのだ。

思い出の「あのラーメン」は、
アニメ漫画の食べ物のように、手に入らない「架空の食品」なのかも、と、思い始めていた頃の発見は、うれしかった。

何歳になっても、新しい発見があることに、人生のおもしろみを感じる

実家の周りに広がる水田も、
今はずいぶん埋め立てられ、住宅が増え、コンビニエンスストアもでき、便利になった。

しかし、わたしの心に残る、壁の中の、竹の格子や、畳の下のラーメンの跡は今も変わらない。

親戚が大工さんなので、親族の家を解体する際は、昔は業者さんに頼まないで一族総出でおこなっていた。
いつか実家を解体することがあれば、私も現場に出向き、跡が残っているかぜひ検証したい。

その際は、長靴を新調していこう。赤い色を選ぼうと決めている、

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