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テキストは批判的に読んでよい(そしておかしな批判には反証が付き物)

 読書会課題論文のカント『啓蒙とは何か』、入門書と並行して繰り返し読む内におおよそ書いてあることの概要が掴めて来た。
 次の課題は「テキストを批判的に読む」つまり「批判的に読んで自分なりに批判的意見を出してみる」。
 ひじょうに取り組み甲斐のある面白い作業だ。だってカントだよ。ヘーゲルという、私はよく知らないけど「世界を説明した」と哲学の先生に解説される大物哲学者の成立させたドイツ観念論という大きな潮流の原型を作ったカントだよ。そのカントの書いたものを批判的に読む、って、どれほど刺激的なことか。カントの論文は、入門書で解説されながら学習すると、飲み込まれて圧倒され頭のなかすべて崇拝の念に埋め尽くされるほど壮大ですごい。とある研究者先生のSNSのBioに「専門はこの世」とあったけど、カントもまさにそう。この世界すべてを相手にしている。
 そんなカントの著作に批判。このような私が。出来るのだろうか。いや、カントを批判するってどれだけ物を知っていたら出来る事なのか。
 私のカントに勝る優位性は、カントより200年未来の世界に生きているということ。カントの後輩たちを知っているということ。ヘーゲルだってカントに対して批判的な面はあった。ただ、そのヘーゲルの批判に対してもカンティアンからは反証が出ていると聞く。
 この状態で私にどんなまともな批判が可能だというのか。
 でも、出来なくても、テキストを鵜呑みにしない訓練だけでも大事なことだ。批判はしていいんだ。それこそカントのいう啓蒙とは、理性の合理的思考力を活用することではないか。出来る出来ないではなく、それは試みて良いことだし上手くできそうならやっていい。なんと。

 なんて素晴らしい機会だろう。つくづく講師には感謝であるし、このような機会をとても幸運だと思う。

 ところで、私は中学社会科の教科書に載っていた「人間は考える葦である」だとか、「神の見えざる手」だとか、何を言っているのかわからないけど妙に格好良い言葉に憧れ、それらが哲学者の言葉だと知って興味を持った記憶がある。どうすればそんな格好良い言葉が言えるのかと。
 ときどき、哲学者や知識人文化人の箴言を引用する人を見ては、物知りですごいと思った。
 だが、引用は常に適切な文脈においてなされなければキマらないものだ。引用の内容と本文との釣り合いが取れないと引用は浮く。
 私はなかなか哲学者のような特殊な知性を持った人々の箴言を引用できないし、適切にそれを扱う事も出来ない。ただ、哲学を少しだけ齧ってみていよいよ思う。引用は生半可な技能では出来ない。哲学の言葉は一般用語ではないし、一般的に使われる単語がある時代のある著書の中ではある程度固有の意味を持っている事もある。それは大きな文脈の中で読まなくては意味が読みとれない言葉だったり、一文であったりするのだ。それを引いてキメるには、やはり相応の技能が必要だ。
 それがわかって来ただけでも、物知りなだけと運用能力も優れているのと、能力にも色々あるし、どの能力とどの能力に長けてその文が書けているのか考えられるようになり、無闇に驚かなくて済むようになれたかも。

 しかし若い頃勉強しないと、大人になってから急にこういう事に熱中したりするものなのだな。我ながら滑稽だわ。


 

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