残暑の日に

9月も半ばを過ぎ、ようやく涼しい日が増えて来た。一方で千葉を襲った台風の被害はまだ甚大だ。災害に脆い都市だったのだとも思うが、この救助対応の遅さはどういう事なのだろう。
平成の頃、『サラリーマン金太郎』という漫画で「日本人は殿様が好きだ」という作中人物の台詞を読んだ記憶がある。「お上には逆らえない」といった慣用句に耳馴染みのある人も少なくないのではないか。日本的封建時代の名残りなのだろうか。日本では上位者に忠誠を誓う事自体が美徳である。考えてみれば、それが日本の「公と私」なのかもしれない。仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書)によれば、まさに日本の「公」とは「自集団の上位集団」を指すらしい。つまり、自分自身を「私」とする場合、家の中の父親は「公」。そして対象が会社や市になれば、自分を含む「家族という集団」が「私」になり、会社や市が「公」。更に大きな集団が対象なら……と、より大きな公に対して自分達は「私(小公)」となる。そういう他人と自分の捉え方をする。そして、自分に対する「公」に服従的でいる事こそ美徳であり、正しさなのだ。そして正しさのために何もかもなげうつ事がよしとされ、その「よし」は「よし」でしかなく、そこに契約的な見返りもリターンもメリットも原則的には存在しない。それは契約ではなく「美徳」だから。
不思議な事に、何故かこの時の全てをなげうつ私達は、「有事にはお上(公)が助けてくれる」と信じている。お上(公)もそういう事を口走ったりする。しかし、ついにお上が小公のために身をなげうって守ってくれたり、助けてくれたり、という事例を聞かない。それがあったら岡本喜八の『日本のいちばん長い日』のような状況は生まれないだろう。本土決戦をして、日本の兵隊数千だか数万を特攻させれば勝ち目はある……などという発想は生まれまい。

旧約聖書を読むと、イスラエルの民がバビロン捕囚ののちに、いよいよ神との関係を強め、「私達がよい行いをすれば神は助けて下さる」という神の絶対を確信するようになる。
異文化としてこの話を聞くと、日本人の私には「どうしてたった一度のエジプト脱出でそんなに信じられるのか」という疑問を解消するためにもっと学習が必要になる。しかし学習も何も、私達はもっと摩訶不思議な、たった一つの実績さえもない日本国家というものを信じている。信じてなんでも差し出している。どんな見返りがあるのかも明確ですらなく、国家もまた人間の運用するものであって、超自然的な神でもないのに。絶対の存在としての神を信じるという話は論理的に理解可能だ。意味は通っている。しかし絶対であるはずがない不完全な国家に、何故それほど全てを捧げられるのだろう。国民国家という概念を持って生きていない人々からすれば、それはあまりに熱心な信仰心なのではないか。

こういった疑いさえも不謹慎であるというなら、それはいよいよ。


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