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わかったときは自明だと思うもので

 もうすぐイマニュエル・カントの短い論文『啓蒙とは何か』の読書会がある。
 なのでせっせと読解に励んでいるのだけども、「カントが普通の言葉で語りだした」「読みやすくなった!」と帯に宣伝される古典新訳文庫でも、読めるからわかるわけではないのだなと思い知らせてくれるのだった……。

 この論文は冒頭に「未成年」という言葉が出てくる。啓蒙と関連のありそうな言葉だというのは察しが付くだろう。そしてこれは前回の読書会で講師の先生から少しレクチャーを受けた言葉でもあるので、なんとなくわかる。
 しかしもうひとつ頻出する言葉が「自由」なのである。
 ここでカントのいう自由がなにを指しているのかわからなくて。しかしガイドブックや入門書を読んだら、カントの三批判書のひとつ『実践理性批判』にかかわる「実践理性」と縁のある言葉ということだった。ものすごく単純化すると、「実践理性」とは「道徳、良心」のことらしい。ここから、「実践理性」「定言命法」など、カントのキーワードがあれこれ出て来て、そして「自由とはそういうことか」とひとつ理解が進んだのだった。

 少しわかってきたのは、哲学論文に出て来る語彙は一般的な辞書の意味とは限らず、それはやはり哲学辞典で調べるべき言葉のようだ。なので、言葉の意味を知らないと話がわからない。しかし言葉の意味がわかると、少し先へ進める。また、時代背景も頭に入っていると、更に先へ進める。
 物事一度わかると、その段階以前の自分の理解状況を忘れてしまうもので、「なんでこれがわからなかったのか」等と思うけど、まあそういう積み重ねなのでしょうね。
 あと、「教養があるって何?」というのも、薄々の答えを持ちつつ、やはり知識と思考力を鍛えたいと考えてしまう。しかしどれが教養水準でどれが専門の水準なのか。学部レベルとはどこまでを指すのか。カントなら、『純粋理性批判』を読めるのはどの水準なの?
 そういう疑問を持っていたが、この前シラーの伝記を読んだら、戯曲作家であり大学の美学の教員でもあるドイツ人のシラーでさえ「『純粋理性批判』の理解は困難」とうろたえているのがわかった。(シラーは美学について書かれた『判断力批判』を志向して学んだ)。うーむ、シラー先生でさえ難問なのが『純粋理性批判』なのか。カントってやばい。ということは、これは教養を超えてると考えましょう。少し世の中わかって来るね。

 今日はSNSでちらちらと『在野研究ビギナーズ』の話題を見た。私のような学部卒で研究ってどの程度可能なんだろうか。研究というか……私はもう少し専門性を持った物を書けるようになりたいな。
 不便で離れていたうちにnoteもiPadでテキスト投稿できるようになっていた。もう少しここに日記投下しようかな。

 今日は三連休明けなので、会社で「連休なにしてた」と親睦をはかる質問を受けた。引きこもって掃除と勉強してたんだけど言いづらいので、掃除してたとだけ。

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