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美しい女性

 「美しい女性」なるものについて、度々話題にしたくなる。WEBで誰かが「容姿にかかわるコンプレックス」について書いていると知ると、つい読みに行ってしまう。そして読むと何らか触発されて自分も何か言いたくなってしまう。
 私自身は既婚のアラフォーなので、「容姿が美しいか否か」を悩んだところですでに「若さ」を絶対条件とする美醜価値観の中ではとうに論外の存在であり、誰かの結婚相手の候補にもなり得ない。それでもなお、この話題に敏感に反応してしまう。何故なのか。自分自身でもまだ明確な答えは見いだせない。「これだろう」とあたりを付けても、もう少し考えが進むと「違った」となる。
 それでもなんとはなしに、今現在の自分の心境についてこの話題を書き出してみようと思う。マイナスの要素が思いつかないので走ってしまうが、容姿を貶められて苦しんだ過去のある女の声は外に出して良いものだと私は思うからだ。
 私は最近、自分の容姿コンプレックスを「能力不足だから」と考えるようになった。何かを手に入れるための力が足りない、という苦しみだ。
 その契機は、Twitterで見掛けた「韓国脱コル漫画紹介し隊(@datsukolsaikou)」というアカウントが発信している女性だけに課せられた「装飾抑圧」に関する漫画だった。「脱コル」とは「脱コルセット」の略で、「コルセット」は「装飾抑圧」の呼び変えまたは例えとして使われているらしい。
 https://twitter.com/datsukolsaikou/status/1059812248351211520

 私が影響を受けたのは34話。眼鏡姿の太った女の子ウンジと主人公の美少女ユンジとフェミニズム思想の語り合いで意気投合する。ユンジはウンジをフェミニズムの集会に誘うが、ウンジは拒否する。「私が行ったら“フェミニストは太ってる”って言われてることが、『本当』のことになるじゃん」とユンジに告げる。この言葉がユンジを大きく揺さぶる。それまで「自分自身のために美しく着飾り自分の意思を大事にする女性」を目指して来たユンジ。しかしウンジの拒否を始まりに、ユンジは「何故男は美しくなくても堂々としていられるのか」と疑問を持つようになる。容姿で価値が決まるということは、男性の評価で価値が決められているということ。ユンジはその評価軸を放棄する。美しく着飾る事をやめ、美しい素顔も坊主頭にすることで男性の性的な対象から外してしまう。
 私はこの話に強い衝撃を受けた。これまでの自分の容姿にまつわる悲しみ、憎しみ、痛み、喜び、何もかもひとまず相対化出来たように感じた。
 私は美しい容姿に憧れ、美しくなれるならなりたいと思い続けていた。でもそれは、配偶者や恋愛のパートナーを楽しませ自分自身ももっと愛されたいという欲求以外に、どんな理由からそう思っていたのだろう。
 私が憧れたのは、美しさを通して得られる「何らか」なのだ。それが得られるなら、対価となるものが美しさでなくても構わない。
 私が強く記憶に残っているのは、あだち充の漫画『H2』だ。今手元にないので正しい引用が出来ない事をご容赦頂きたいが、この作品の中に、男子高校生同士の会話の中で「美人には男を成長させる力がある」という台詞がある。発言者が男子高校生だったか、その中に混じっていた教員だったかは覚えていない。私は、ただ美しく生まれるだけで他人を成長させる力があるということだと受け取った。10代の頃の事である。あまりに漠然とした理解と納得だったが、その時「ずるい」「そんな便利な力を生まれつき持っている人がいて、持っていない私もいる」「私はこの人生の間、何もしなくても男性が成長するという特異な状況を得る事が出来ない」と私は苦しんだ。
 私の苦しみ方も幼いが、その幼さが欲求した事もまた荒唐無稽だった。私は美しい姫を優れた王子達が奪い合う物語を読んでは、「美しければ、その美しさで他人を支配できるのだ」と受け取った。私は他人を支配したかった。男性を自分に都合よく支配できる力が美人という存在だった。なんなら金を稼いで運んで越させ、言いなりに言う事を聞かせ、困ったときには代わりに死んでもらえるのが美人の持つ力だった。
 私は美人ではないので、自分ででは美人なるものが現実の男性をどれほど支配出来るのか、の実態を結局知らないままだった。私にとって男性達は意味不明な存在であり続けた。女の美しさなるものに隷属し、なんでもし、なんとなれば命まで投げ出す。そして、時々、あまり女の美醜にうるさくない種族の男性達がいる、という事なのだと。
 この歪んだ認識を改めたのは実質的にはつい最近の事だ。美人を求める男性達の美人の扱いは、一部のフィクションが示しているほど絶対忠実でも女神の如く崇めるでも奉るでもなんでもない。それにようやく気付いたのである。気付いたきっかけはこれまた主にTwitterだった。誰がと特定は困難だが、男性を自称する日本語アカウントが性暴力問題で頻りに女性を貶めている様子を見た。それも複数いた。そこでは「美人」とは、人格ではなく表層の事だった。そして彼らの好み(割と類型的な美を好んでいる)に合う容姿の女性達の事を、彼らは性の対象としか見なさない。同じ人間ですらない。性の対象という下位存在だった。彼らは美しい女を好むがそれは性の対象としてのみだ。美しい女と交際し妻に望む男性も、支配されている訳ではない。女を着飾らせたり贈り物をしたり、女の望みを叶えたりはするが、それだけだ。ほとんどの男性はそんなに好きな女に、家事をしてもらい世話をしてもらい、困ったときには助けてもらうために結婚していた。
 「美人」には、私が思うほど絶大な力は結局なかったのだ。

 そして、それほどの強力な力はないにしろ、やはり美人であることで手に入るものは色々とある。
 例えば、美人は親切にしてもらいやすい。なめられることはあまりなく、優しくされやすく好まれやすい。その分、人が近付いて来やすい事で不愉快な事も表裏に存在するのだろう。
 さて、ここで私が「美人」から得たいと思うものは、やはり「力」だ。美しさと引き換えに容易く「親切にされたい」、「大事にされたい」「好かれたい」「物事を都合よく便利に進めたい」。つまり、美人でない要素で「物事を都合よく便利に進められる」ならば、私は美人でなくても構わない。
 私自身の「美人」の認識も見つめ直す事になった。
 私は「美人」を「色んな事を都合よくしてくれるワイルドカード」だと思っていたし、だから憧れた。すでに美人である人が羨ましく、妬ましかった。そして時々、好きな美人が楽しそうに笑っているのを見ると、幸せな気持ちになった。もしかしたら、これが美人に心を奪われるヘテロの男性の気持ちに近い事なのかもしれないが。
 私はファッション雑誌に表現された美人の鑑賞すら出来ていない。彼女らが美を通して実現出来そうな「自分に有利な状況」にしかほぼ頭が働いていなかったのだから。私は自分をそれなりに芸術鑑賞を好きなタイプだと思っていたが、とんでもない。愚かしいほど美を何もわかっていない。

 では私はどうするのか。
 それでも美人に憧れる。
 この憧れの気持ちはなんなのだろう。
 私は、美の鑑賞が出来なかったとわかったからこそ、改めて美人について考えてみたい。例えば、最近関心のあるカポエイラやペアダンスの女性プレイヤーには、健康的で美しいアスリートのような体型の人が多い。プロになればほぼ確実にアスリート体型だ。私はこれまでスポーツに縁がなく、また嫌いですらあった。ほとんど実践をした事もない。それだけに、個々人が身体能力を高めていく過程で変化して行く体つきに興味が湧いている。
 男性にはいまのところあまり興味がない。男性の体は男性の問題で、私は自分にも関連する女の体の鍛え方のあれこれが興味深いのだ。そして鍛えた体は美しい。その動きも美しくなる。その美しさは、ではヘテロなら男性のためなのだろうか。そうではない。副次的に男性に好まれやすい事も珍しくないだろうが、それは人の身体の美しさであり、そして技能として身体を鍛えても、性的な存在であることから逃れきるのに困難な人間の体そのものについてもっと思考してみたい。
 唐突に「性的な存在」と示したが、私は、ある種の男性の裸体を性的なまなざしで見ない事に困難が伴う。ある種、とは、つまり自分の好みの男性の事だ。そうでない男性の身体にはあまり性的な感覚は湧いてこないのだが、好みの人にはそのまなざしを表に出さないよう制御を要する。特に本人が性的な欲求を喚起させる素振りをしていなくても、だ。私は時々女性に対しても、女性が偶発的にこの性的な欲求を喚起させる素振りに似た動作や姿勢を取った時に、そこに性的なものを感じ取ってしまう。そして、「人目に触れさせるものではない」と思ってしまう。この似ているだけにすぎない姿勢や動作に、性的な要素を感じ取ってしまう。どんなに性と無関係な身体表現をしているだけでも、ふとそこには誰かにとって性的な存在になり得る身体があると考えてしまう。
 これは私に限った感じ取り方ではないと思う。そこが、「逃れきれない」と思う。

 美人でない事を指摘されるのは不愉快だ。そこには確実に差別意識がある。そう指摘する側には差別と自覚のない事も多いだろう。特に女の不美人を指摘する女は、差別しているつもりはほぼない。「これは言ってはいけないこと」と思いながら「でも真理」だと考えている。「生まれつきの負け犬と名指ししては気の毒だから言わないのがマナーだが、でも、世界の真理は美人の価値は高く、不美人の価値はない、ということ」と考えている。それは男性が作った基準であり、真理ではない。そして、その価値基準を女性が受け入れる理由はないのに。それでも特定の基準でそれを共有しない他人を「不美人」と「馬鹿にする」事は、要は差別なのだ。
 差別されたら人は怒る。最も私は、「不美人」と言われる事は男性からの評価より、「男性を支配する事で得られた好都合が得られていない」という損失の方に傷付いていたが。でも、突き詰めれば男性の評価を基準にする女性も、男性から得られる好都合をより多く獲得したいだけかも知れない。お金のように。
 また男女関係においては、性的な関係があることを前提としつつ、性的な関係だけが二人の関係自体を維持する訳ではない事もまたあり得るし、多くの親しい老夫婦の間で起こっている事だろう。
 「美人とみなされない苦しさ」には、単なる美醜の問題でない色んな理由が絡んでいる。私は自分の体験と思いを観察対象としながら、もう少しこれを考え続けてみたい。

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