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「理解」と「納得」

僕は、この言葉が似て非なるものだと考えています。

さて何故こんな話題をしようと考えたかというと、なんだか「○○を理解してよ!」という説得はどこかしら強制させるような、一方的な感じがします。
そこで、僕は「理解」と「納得」の線引きをしたい、と考えています。


1.「理解」とは

たとえば自分の趣味や好きな何かがあるのはいい事だと思います。

どうでもいいですけど、自分の趣味は「ここだ!」という所で取り敢えず写真を撮ることです

でもこれらを他人に伝える時。
例えば上に出した僕自身の「写真を撮る」という趣味。
出来れば僕も色んな人の「ここだ!」と言うような瞬間の写真を見たいですが
(それならInstagramに行けってんだ)、僕はここで趣味を共有したいと思っています。

あわよくばこの趣味を色んな人に「理解」して欲しいとも考えています。
ですがこの趣味を人に必ず「理解」させるなんてとても無理な話です。


2.「理解」の行く末

だいたい、皆さんも大なり小なり「理解」して欲しいものを持ってると思います。
でも、それが必ずしもそれが叶うとは限りません。
もし「理解」を強制するのなら、それは単なる「ワガママ」のように感じます。

それは趣味や好きな物の範疇に限らず、政治的なものやその場の「空気」にも同じことが言えます。
たとえば四六時中口喧嘩が絶えないSNS(とくにXとか)では一方的な「理解」の押し付け合いが多発しています。
「○○は異常」だとか「○○だから論破する」みたいな形の排斥も、一方的な「理解」の一つでしょう。

一例として某配信者の切り抜きサムネ

あらゆるものが一方的な「理解」のために言い争いが絶えません。結局のところ、一方的な「理解」が生み出すのは「誤解」、「憎しみ」、そして「分断」に過ぎないでしょう。

話を大きくすると「戦争」も、このような一方的な「理解」のために起こるものです。

でも、仕方ないのです。人間というものはみな「自己中」だから、一方的な「理解」があっても何らおかしくはないし、
その「理解」を受け入れてくれる人がいるからあらゆるコミュニティは形成され、人間らしく生きていけるのです。

ただ、みんな平和を心のどこかで願っているはずなのに、一方的な「理解」のせいで世界の分断を引き起こして、醜い争いを何度も何度も繰り返す……。

かなり飛躍してしまったけれど、一方的な「理解」は人々を破滅へと導くものだな、と感じています。


3.「納得」とは

「納得」とは僕の中でこう定義しています。

「納得」とは、「双方が受け入れられるもの」

「理解」というのは決して悪いものでは無いのです、
でもそれが肥大化して、双方が受け入れられるものでなくなってしまった時に、「一方的な」理解になってしまうのだと思います。

そうではなく、双方が「納得」できる要素を「理解」の中に埋め込めば、ある程度の対立を避けられると思っています。

決して「万人受けする事を」言うことが「納得」ではありません。
例えば友達や家族、恋人などといった2者間限定でもお互いに受け入れられるのであれば、それは間違いなく「納得」です。

「納得」とは即ち、お互いの違いや価値観を受け入れることで初めて成立するものです。
そこに違いや価値観の相違があっても、それを受け入れた上で排斥することなく、攻撃することなく認め合えたら、それは「納得」です。


4.「納得」が生み出すもの

「理解」させようとするのは簡単ですが、「納得」するような言い方はとても難しいです。(実際、この記事自体「納得」してもらえるかどうかw)

兎にも角にも、双方が受け入れられる「納得」が生み出すものは「愛」です。
それは性愛的なものではなくて、「人に優しくするパワー」としての愛です。

僕も「納得」できるような言い方が出来るといいなぁ。

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