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逆さまの空へ 1 - ②〔小説〕

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『逆さまの空へ』1-①


「……ですので本日は治験開始前の血液検査をさせていただき、その結果に問題がなければ2週間後より服薬開始となります。
その後は服薬開始から1週間、2週間、4週間、8週間、12週間後の血液検査を受けていただく流れです。毎回この施設に足を運んでいただくこととなります。
ここまでで何か質問はございますでしょうか?」

 治験担当の医師からの説明を、武仁はうわの空で聞いていた。会議室6に入って、武仁は部屋の中を念入りに見回したのだが、目の前にいる担当医師と案内役の白衣の男の他には、誰の姿も見つけられなかった。自分の直前に部屋を出た被験者番号6の男でさえも綺麗さっぱりと姿を消していた。
 案の定、確信は早くも疑惑へと戻りつつあった。あまりにも鮮烈に脳に刻まれた信田朝文の姿は、もうどこにも見当たらないのだ。その落差により、あたかも幻覚でも見せられたような気になっていた。
「あの」
 ふいと武仁の口から言葉が滑り落ちた。医師は「はい」と軽く受ける。
「……いえ、なんでもないです」
 何かを聞きたかったわけではない。それは胸のわだかまりをため息に変えて吐き出したような言葉だった。被験者のプライバシーが明かされることなどあるわけがない。武仁はそのことを重々承知していた。

「それでは説明を十分理解した上で同意頂けるのであれば、ここに署名をお願いします。今日は採血が終わったらそのままお帰りいただいて結構です。謝礼金は投薬開始から2週間を目安に銀行口座に振り込みますので、ご自身でご確認ください」

 治験担当医師の話が終わる前に、武仁の手は動いてサインを済ませていた。医師は同意書を手元のクリアファイルに収めると、武仁をまたひとつ隣の部屋へと促した。
 その仕草はまるでスタートの合図に思えた。もしかしたら信田はまだ近くにいるかもしれない。トイレに立ち寄ることだって、施設内で道に迷うことだってある。武仁は慌ただしく席を立った。

 採血室を出る。そのフロアのトイレ、エレベーター、階段を下りきったところ、そして1階のトイレ。どこを探しても信田朝文の姿はなかった。あれほどの大男だ、見落とすなんてことはありえない。

「今さら会ったところで話すことなんてないだろ……」

 武仁は肩を落とした。なぜ落ち込むのか、自分でもよく分からない。自ずと出た仕草だった。

 外に出ると西に傾いた陽がガラス張りの施設を真っ赤に染め上げている。燃えたぎるように映る色を見て我に立ち返り、さっき言われた採血をちゃんと済ませたかどうか不安に駆られた。左肘の内側を見やる。そこには止血用のテープがしっかりと張られており、中央が褐色に滲んでいた。
 再び空を仰ぐ。そこには高校生の頃に見上げたものと同じような夕陽があった。しかしその手元には2019年の文字が印刷された文書が抱えられている。
 どうも時間の流れがおかしくなっている。きっとすべては信田朝文のせいだ。武仁は空に向かってそう呟いた。混沌とした時の流れを無理やり整理しようとするのを打ち切り、ようやく帰路につこうと施設の門をくぐる。そして歩調を緩めることなく駅へ向かった。うごめく過去を背中越しに感じながら、やや前のめりに、振り払い逃げるかのように。

 信田朝文は果たしてその日その場所に存在していたのだろうか。その疑念になすすべもなく、足だけが先へ進んだ。

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『逆さまの空へ』2-①


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