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逆さまの空へ 4 - ③

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『逆さまの空へ』4-②


「沖くんだよね?」
「信田?」
 ちょうど目の高さくらいに、いつかの写真と同じように、緊張に歪んだ口元があった。

「まさか、こんなところで……」
 信田朝文は話しかけた人物が知り合いであることを確認できて安堵したようだった。
 一方で武仁の方はまだ混乱していた。治験担当医は「ここにシノダアサフミはいない」と言った。……言っただろうか。いや、確か「今回の治験参加者に入っていない」と。それは同じことではないのか。

「そっちこそ、こんなところで何してんだよ?」
 武仁は訝る気持ちをそのままぶつけた。狼狽えたこの2週間の自分自身に対する怒りは、中嶋や治験医師に煽られたこともあって既に爆発寸前だった。

「バイト……しようと思ったんだけど、脱落した」
「脱落?」
「ああ……」
 どうも歯切れの悪い受け答えが癪に触って、武仁は話を続けろよと目で訴えた。
「参加できないんだってさ。なんか肝臓の数値だかなんかが引っかかったみたいで……」

 ばつが悪そうな顔で口ごもる信田を見て、武仁は妙な違和感を覚えた。
(こんな奴だったっか?)
 しばし信田の顔を見つめると、視線に耐え切れなかったか、すぐさまに信田の方から逸らした。
(そうだった、こういう奴だった)
 高校の卒業生の中で飛び抜けた偉業を成し遂げ、メディアもファンもあまりに彼を神格化していた。その過去が膨れ上がり過ぎていたために忘れかけていた。信田はマウンドに立てば凄みのある形相でバッターを薙ぎ払っていく鬼のような男だったが、グラウンドを離れるとその印象はだいぶ違った。気弱とまではいかないが、口下手で人見知りなただの高校生だった。そんなコイツの本性をメディアが暴いて面白がる前に、彼は失脚したのだった。

 武仁は少し好意的な態度で信田を見てみた。此処で待っていて自分に話しかけるチャンスをうかがっていたということは、初回の集合の時、あの待合室で俺の存在に気づいていたのだろうか。信田の顔が多少老けて体型が丸くなったのと同じか、おそらくそれ以上に俺の方が劣化している。メディアに顔を取り上げられていた信田と違って俺の顔を見る機会なんてほとんどなかったはずだ。信田の性格を考えれば、今日俺に話しかけることには相当な勇気が要ったことだろう。武仁はようやく溜飲が下がる思いを得た。

「肝臓の数値って……俺たちもそんな年になったか〜。酒か?脂肪肝か?」
「分からないけれど、とりあえず受診を勧められた」
「検診とか受けてないの?……ってか、お前、いま何やってんの?」

 信田は矢継ぎ早の質問に答えきれず、じっと俯いてしまった。武仁はその姿を見て、自分も中嶋のような話し方をしていることに気づき自己嫌悪に陥る。
 2人の間にしばし沈黙が流れると、横を通り抜けていく人々の話し声が耳に届いた。その声に武仁は我に立ち返る。そうだ、被験者番号8の中嶋も説明を受け終えたら、此処を通って帰るかもしれない。見つかったら厄介だぞ。

「とりあえず、立ち話もなんだから場所を変えよう。せっかくだし飲みにでも……」
 武仁は一瞬口をつぐみ、そして言い直した。
「ああ……肝臓悪いんだっけ」
「まあ、昨日までも飲んでたから大丈夫。飲むならウチにおいでよ。居酒屋やってるんだ」

 この時、朴訥とした低い声が丸みを帯びるのを武仁は感じた。その声は何かしらの「繋がり」を求めていた武仁の心に手を差し伸べるようでもあった。
 それにしても居酒屋をやっているとはどういうことだろう。元野球選手プロデュースの店、といった風潮は昔はあったが最近はあまり聞かない。それどころか、信田朝文は消息を絶っていたはずだ。彼がカウンターに立っていようものなら、大騒ぎとまでは行かなくても、誰かしらの耳に入って拡散されそうなものだが。

「久々の再会かと思えば客引きかよ。店はこの辺?」
「浅草」
「ウチからもそんなに遠くはないか。まあ、いいよ」

 武仁と信田朝文は駅に向かって足を進めた。駅まで10分強。途中、石神井川に沿った遊歩道に植えられた桜の木に目が止まった。流れ込む強い風に、まだ小さくて固そうな蕾たちが揺蕩うさまを眺めた。まだ漂うことも許されていた高校の卒業式から20年が経っていた。
 まさか、こんな日が来るとは思っていなかった。武仁は真横を歩く大きな男の影を幾度もチラ見しながら、飲み屋でどんな話をしようか、するべきかを考えていた。お互い胸の内にわだかまりを抱えたまま、言葉を交わすこともなく迎えた卒業式があった。それはあまりに遠すぎる過去で、今さら掘り起こすことではないのかもしれない。しかし放っておけば、また「負けろ」という自分の声が勢力を盛り返してくるような気がしてならなかった。

 高校3年生、夏の甲子園千葉県予選の決勝戦。俺は信田朝文の投げる背中を目がけて、呪いのように言葉を繰り返し飛ばしていた。「負けろ」「負けろ」と。
 そんなことが許される立場ではなかった。当時、俺は吹奏楽部の部長をしていた。ブラスバンドを率いて野球応援を引っ張り、支えなくてはならなかったのだ。しかし全国大会初出場を賭けた天王山ともいうべきあの試合で、俺は自分の役割を放棄した。ひどく個人的な感情のために。そうだ「小峰ありさ」のことを思うと、断固として応援する気にはなれなかったのだ。
 武仁は信田朝文の顔を見上げた。進行方向を見つめる揺るぎない瞳がそこにあった。さっきはいとも簡単に目を泳がせ、目線を逸らしたというのに。もしもこの場で彼女の名前を出したら、信田は狼狽えるだろうか。……きっと狼狽えることだろう。
 しかしこの切り札はしばらく取っておこうと考えた。まだ、武仁の中で記憶の再構成が曖昧なままだった。断片的な過去たちが自然と繋がっていくのを待ってからでも遅くはない。それまでは、当たり障りなく信田と接していよう。

 程なくして2人は十条駅に到着し、ちょうど到着していた埼京線の列車に乗り込んだ。

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『逆さまの空へ』5-① *準備中

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