見出し画像

この足しか知らない

迷っている。どちらの道へ行こうか。
遠回りのイバラ道か、通常のイバラ道か。
どちらにしたって険しいことに変わりない。

この数年で大きく方向転換した僕は、環境を変化させることのメリットを痛感した。
生活環境を変えることは、ある意味で「生まれ変わり」だ。それは世界や自分自身に対する思い込み・先入観を捨て去る大きなチャンスだった。新しい環境で手探りしながら生きてみたら、大抵「とほほ」だった僕の人生に、少しは明るい光が差し込んだ気がする。
イバラじゃない道も知って、それも悪くなかった。でもやっぱり刺激は欲しい←

捨てたのは「常識」と「競争」だった。
ここでの「常識」というのは、何歳になったら何をしていて、何歳にはこういう心理に達していて、男ならこういう生活態度で……といったものだった。
「競争」は、人より優位に立つためのあらゆる社会活動や経済活動のことだ。

世の中で、「常識」と「競争」を基準にして生きている人ってどれくらい多いのだろうか?
常識イズムと競争イズムはなんだかんだ言って優しい
それらがどれだけ昼間に自分の首を絞め身を引きちぎろうが、夜が来て1人になれば、優しい寝室へと誘う灯明に変わる。
「大丈夫。周りに合わせて生きている。その中で人より幸せになろうと努力している」
「そうだね、今日も頑張ったね、おやすみなさい」

……いや、本当は自分自身がまだどこかでそれが一番良いのではないかと思い込んでいる。
常識と競争の2つの軸は「他人のため」の活動に繋がりやすい。
一方で自分のためだけの人生は、孤独に陥りがちだ。
自分のため」と「他人のため」の重なる面積の大きい人生が生きやすい。社会活動の多くのことが金銭を介して成立しているのは、それらを重ねやすくするためだ。

きっと出発地点は「自分のため」が良い、と思っている。いつだって、全ての活動の源はこの心と体なのだから。「自分のため」の人生に納得いけば、「他人のため」にシフトしたり、風穴を開けたりすればいい。

じゃあどこまでが出発?
いつになったら納得する?

自問自答は続く。おそらく頭の中の論理も推測も表象も、希望や絶望でさえも答えを教えてくれない。
先のことは飛び込んでみなければ分からない。
だから知っているのはこの足だけなのだが、不思議と、人の足は人の言語を使ってくれないのだ。
出来ることは歩くこと、踏ん張ること、時に走ること、時にスツールの上に置かれて休むこと。
その機能は言葉で表せば少ないけれど、本当は無限大なんだよな。たぶん脳以上に。

この足はまだ踏ん張れるか?
脳が間違えて迷った時にも踏ん張れるか?

言葉にすれば少しは気持ちが整理できるかと思ったけれど、まったくそうならなかった。笑
こういう時はやっぱり脳って役立たずだね
でもたぶん遠回りをするんだろうな。
そのうちに目的地も変わって、それでもまた予想外の場所に出て、あれれ?ってなる。

落とし所も見つからないので、今日の日記はこの辺で。さようなら。

*この日記は日比野くんのものではなく、矢口れんとのものでした。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!