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その言葉は信じてもらえなかった。信じたのは800円の本と花。

 桜が咲きました。
 先日、大学を卒業される女性3人に贈り物をしようと、百貨店の女性向けハンカチコーナーに立ち寄りました。なんとまあ鮮やかな柄、かわいらしい柄の数々。これは完全に男女差別ですね。生涯をかけて抗議したいと思います。笑

 春の到来はいつも切ないものでした。別れの季節だからではありません。今日は、昔の話をしようと思います。語るまいと心に決めていたことでしたが、なぜか今語る必要に駆られたのです。自分語りを読むのは好きです。書くのも嫌いじゃないです。でも書いたあとに「自分かっこ悪い」と自己嫌悪に苛まれることも多いのです。
 このタイミングで書きたくなったのは、卒業論文のテーマらしきものが自分の中で決まったからだと思います。そうです〈卒業論文〉です。僕はこの春、大学4年生になります。戸籍上は30代半ばですが、2度目の大学生です。今回はおそらく長文になります(書いたあと読み直したら、やはり長文になりました)。お付き合い頂ければ幸いです。

 2002年の春、18歳。大学入学試験の合格通知を受け取った僕は、一瞬だけ大喜びしました。「努力が認められたんだ」と。猛勉強の末に勝ち取った合格でした。
 しかしその後、ふいに急激な切なさに襲われました。その切なさは、期待と表裏一体の関係にある不安とも違うようでした。社会的な安定への第一歩だったはずです。その感情の正体が分からず、あっという間に一度目の大学生活へ突入。初めての一人暮らし、まったく知らない分野の学習、自由な恋愛に部活動。充実していたと思います。
 しかし春が来ると、毎年あの切なさに襲われました。形容する言葉がなかなか見当たりません。強いて言うならば「負けた」感覚。振るわなかった試験や、負けたスポーツの試合で感じるような、虚無感に近かったと思います。しかし不思議なことに、負けていはいないのです。大方のことは充実していて、大きな失敗もなく過ごしていたのに、毎年やってくる切なさ。その不思議な感覚を詩にしたためていました。2003年のものです。

いつになっても咲かずに落ちてゆく蕾の中でこんなに美しく咲き誇っているのになぜ切ない?

 大学卒業後に就職してから、かなり忙しくしていました。残業時間は昨今において気軽には書けないレベルです。しかしそれを自分は充実していると感じていたし、こなしている自分のことをカッコイイと自負していたように思います。
 入社して7年目には、周囲からそれなりの評価を頂けるようになり、今の妻と結婚もして、幸福の絶頂にありました。周りの人から見ればきっと非の打ち所のないであろう幸福な人生。実際には、自分でそんな風に思っている自覚はなかったし、そのように思われてもいなかったと思います。それでも後から言葉にするなら「周りから見た幸せの絶頂」が適当だと思うのです。
 2013年には仕事の専門性を高めるために博士号を目指して大学院に進学しました。仕事、研究、家庭、3拍子揃って、僕の人生はさらに充実、充実、充実。
 そして2014年の春先、その年もまた、あの切なさに襲われました。研究室の傍にある桜の花が風に揺れて、何か話したげにしていたのをよく覚えています。「なぜ切ない?」と話しかけても、答えは返って来ません。
 その頃、大きな風邪を引きました。38度台の熱が出て2日ほど続いて自然に下がります。そしてそれが月に2〜3度も起こるようになって、休めば治るを繰り返しました。研究室を休むことが増えましたが、仕事は給料に直結するのでなかなか休めませんでした。仕事中にイライラするようになり、集中力が持続しません。半日働いただけで、1ヶ月休みなく働いたかのような疲労感がありました。そして……そのうち夜に寝付くことができなくなってきました。
 ある晩には、体のうちから怒りという怒りが込み上げてきて、自分の体を打ち破ろうと蠢き出しました。僕は恐怖でパニックになり、敷布団に何度も踵を打ち付けました。出て行け、出て行けと。怒りと恐怖は治らず、次には布団を丸めて蹴りつけました。ありとあらゆる知人らの顔を思い浮かべて、執拗に蹴り続けたのです。非情と思われるかもしれませんが、その時に妻がどんな顔をしたか、どんなリアクションをしたか、などは全く思えていないのです。おそらく妻に対しても、ひどい暴言を吐き続けていたような気がします。
 翌朝、自分が精神科の受診が必要な状態にあるとすぐに悟りました。近隣の精神科や心療内科のクリニックに片っ端から電話をかけましたが、どこも初診は2週間から1ヶ月先まで難しいという状況でした。そんなに待っていたら、自分は人を殺してしまうかもしれない。そんな恐怖が脳裏をかすめる中、最後に電話をかけたクリニックが「3日後でしたら大丈夫です」と言ってくれました。3日なら待てるかもしれない。僕はそこに予約を入れてもらい、電話を切りました。安堵とはあのことを言うのでしょう。僕はそれまで〈安堵する〉ということを知らずに生きていたようです。

 精神科医師の診察を受けて「抑うつ状態」と言われました。「うつ病ですか?」と聞くと、「抑うつがベースにあるのは間違いないと思います」と明言を避けられました。長年、職場で〈確定的〉な事物ばかりを扱っていた僕に、そのような不明瞭な回答は理解しがたかったのですが、先生の言葉になぜか安堵感を覚えました。
 抗うつ剤と抗不安薬の内服を開始して、2週間くらいで効果が出てきました。しかし職場や研究所には精神科を受診したことは言わず、素知らぬ顔で過ごしていました。薬を飲んでいればそのうち治るだろうし、これまでも曲がなりにやってきたわけだから。通院していれば元どおりの生活に戻れる。そう思っていたのです。なにより、これまで受けていた期待や信頼を裏切ってはいけない、などと考えていたように思います。

 しかし通院を開始して数ヶ月経った頃。父が突然の病に倒れました。実家は大パニックです。家業を営み、多くの従業員を抱えていたので、突然休業するわけにもいきませんでした。その時には僕も眠れるようになっていたし、イライラも少なくなっていたので、家業を手伝うことにしました。とは言え、自身の仕事も研究もある中で家業を手伝うなんてどう考えても無理な話で、休業に向けてソフトランディングする手伝いという意味でした。しかし僕が実家に帰ってきたことで家族は大喜び。もうこのまま家業を継いでくれるかのような喜びを見せていました。
 自分の住居から職場まで片道数十分、研究所まで片道1時間、実家まで片道2時間。そこらを行き来する生活は2週間も続きません。あっという間に、「抑うつがベースの状態」が急激に悪化。不眠、イライラ、焦燥感。今度は妻に担がれてクリニックを緊急受診しました。先生はよく話を聞いてくれた上で、具体的なことは何も言わずに薬を増量してくれました。それで落ち着きを取り戻し、自分の人生について深く考えることができました。

これまでの人生を復活させることは不可能だ

 僕の考えはここに行き着きました。しっかり休養しなければ、ずっと良くなったり悪くなったりを繰り返して、むしろ周囲に迷惑をかけるし、何より自分が安心できない。そう思い、ようやっと上司と父親にクリニックを受診していることを打ち明ける気になったのです。しかし、それを実行した日には、今思い返しても身の毛のよだつようなおぞましいことが待ってたのです。

 上司には経緯を説明した上で休養を申請しました。すると
「その主治医の先生は本当に信頼できる医者なの?」と言いました。そして休養願いは却下されました。
 父親には家業を手伝うのは無理だと伝えました。すると
「今のお前の顔はうつ病の表情じゃないな」と仮病扱いをされました。
 その2日間で切れました。僕がキレたわけではありません。いつの日からかずっと自分を引っ張っていて、周りから見たら幸福に見える未来へと導いてくれていた糸が、プツリと切れたのです。あまりに脆い糸でした。それまで切れてこなかったことが不思議なくらいです。
 2人の発言には、落ち込みも苛立ちもしませんでした。そこには無の感情しか現れませんでした。

 それからある日、実家の近くにある大型書店に立ち寄りました。なぜか普段は足が向かうことのない宗教・哲学のコーナーに自然と足が向かいました。救いを求めていたのでしょうか? 正直、この日の感情もよく覚えていません。そこでタイトルと装丁に惹かれて手にしたインド哲学のエッセンスを詰め込んだ本が、果てしなく僕を慰めてくれました。意味の分からない用語、訳の分からない理論で埋め尽くされた本に、何かしらの閃きを感じたのです。遠く隔たった地の何千年も前の宗教書に慰められるなんて、僕の精神はとうとう来るところまで来たな。そう思いました。余談ですが、多感な時期に地下鉄サリン事件などの一連の報道を目の当たりにした僕は、盲目的な信仰に対して強い警戒心があります。
 その本を800円で購入し、帰ろうとして車に乗り込んだ時、高校時代に読んだ或る本のことを思い出しました。ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』。仏教の最初の指導者であるブッダと、厭世観を抱えた西洋人を重ねて描いた、ヘッセの代表作です。たしか『車輪の下』が面白くて、その続きで読んだ作品群の中にそれがあったのだと思います。美しい筆致、豊かな描写に感激した、遠き日の記憶が蘇りました。その日はインドになにかしらの縁を感じながら帰途につきました。

 また別の日に、何となしに上野公園に立ち寄りました。公園口を出て歩くと、清水観音堂の少し手前に小さな人だかりがあるのを見つけました。暖簾で区分けされたスペースがあり、そこで牡丹園が催されていたのです。財布を出して800円を払って入場しました。花を買うことはあっても、観るためにお金を払うのは初めての経験でした。島錦、八千代椿、五大州、どの名前も初めて目にしたし、これほど近接して牡丹を見ることもありませんでした。花弁の一枚一枚の波線、堂々たるおしべやめしべ、対比する葉の緑、何もかもが見事でした。そこには、全ての言葉を失くしてしまうほど、胸に迫ってくるものがありました。展示も終盤に差し掛かった頃、牡丹を前にして僕は立ち尽くして涙を流しました。
 800円で区分けされた場所に、こんなにも美しい世界が広がっていたのか。僕は暖簾にかくまわれ守られ、牡丹に慰められた気になっていました。そしてまた帰路。さらに色々なことを思い出しました。美しいものを美しいと思うこと。美しいものを美しいと言うこと。そして美しいものを生み出したいと願うこと。これが高校時代までの僕の愉しみであり、生きがいであったことを思い出したのです。

(残念ながらその大切な生きがいを捨ててしまったのは、受験システム・拝金主義・古びた「孝」の思想と、自分の強すぎる上昇志向とが歪にマッチングしてしまったからだと思います。要は自分が統合的な自分自身の選択を怠ったのです)

 800円で購入した鮮烈な2つの体験は、僕に忘れかけていた高揚感を取り戻させてくれました。もちろんそれだけで元気になったわけではありません。何よりも〈時間〉が僕を救ってくれた部分が大きいと思っています。「うつ状態と診断されたので休みを下さい」と社会に吐き出して、その言葉を信じてもらえなかったあの日から半年くらい経って、僕の病状はようやく安定しました。完全に仕事をやめることは出来なかったけれど、非常勤になって、大学院はやめて研究所を後にして、実家は休業させ距離を置きました。

 そしてある日、意を決して主治医に相談したのです。
「もう一度大学に行って、インドのことを勉強してみたい」
 そのように告げました。すると、いつも優しい表情ながらも淡々としている主治医の顔が、この時は少しばかり華やいだのです。
「とてもいいと思いますよ。僕も少し前に大学院に行って○○の勉強してたんですよ」
 そう返ってきて、僕の目が点になりました。○○とは、医学・精神医学とも心理学とも全く関係のない、芸術学の一分野だったからです。こんな生き方があっても良いのか……。僕はその主治医の前でいったい何回安堵させて貰えたか。きっと数えきれません。その質もその量も計れません。

 社会人枠入試での僕の小論文や面接の内容は、きっとひどいものだったと思います。人文学の分野に関して知識が少ないだけでなく、理系にもブラック社会にも染まって凝り固まった僕の思考回路は、ひどく短絡的で偏ったものでした。でも一切の恥を捨てる覚悟でいたのです。「僕は今、一旦どこかに預けた自分の人生をやり直している。だから今は18歳からのリ・スタートだ」。そう自分に言い聞かせ、強く心を持っていました。
 そして入学。身も心も戸籍も18〜19歳の人たちと席を並べて学ぶことは、素晴らしい体験でした。活気、勇気、自由な発想。その逆に、無為、恥じらい、思い込み。彼らの持つものはどれを取っても宝です。社会での半端な人生経験など、限られた空間において役に立つものでしかない。そう教えられました。授業も毎回身悶えるほど面白いです。この面白さが後の人生には経験し難いと知っていること、そして1回の授業にどれだけお金を払っているかの感覚を持っていること、この2点だけが社会人大学生としての僕の強みでした。(収入や社会的信用を落としてまで進学しようとする僕に一切の反対をしなかった妻には、感謝の念が絶えません)

 僕はもう元気です。仕事も順調だし、よく眠れています。時々イライラすることはありますが、ちゃんと理由の説明できるイライラで、持ち越すことも少ないものです。通院は今も続けています。これまで主治医に二度だけ怒られました。
 一度目は僕が「やっぱり社会に対して後ろめたさがある」的な発言をした時。二度目は「文学で大学院進学を考えているけれどやっぱり社会的に……」と言った時。
 いつも穏やかな主治医が声を荒らげました。「好きなことをやれてるんですよね?それで何の問題があるんですか?」と。
 僕の口から出る「やっぱり」は、切りきれていない糸なのだと思います。今でも「社会的に」という呪縛が払拭しきれていないようにも感じます。しかしその感覚は、日を追うごとに確実に薄らいできています。

 なぜ毎年春が切なかったのか、今年になってよく分かりました。
 それは〈自分をなおざり〉にしていたからです。皆が〈自分自身の人生〉に挑戦して(いるように見えて)、勝ったり負けたりする春に、僕は〈社会的に〉という漠然としたものに囚われて、自分と上手に折り合いをつけられなかったからです。どのような選択をしても自由です。自分を見据えてとことん付き合っても良いし、社会や経済の基準に精一杯浸かるのも良いと思います。正解などはきっとありません。ただ僕の場合は、気付かぬうちに少し失敗していただけなのだと思います。

 僕は今年30代半ばにして卒業論文に挑戦します。おそらく「ブッダを讃える詩文の表現」をテーマにすると思います。正直、信徒ではないのですが、彼の求心力には大きな興味があります。社会的にはきっと何の役にも立ちません……立ちません? いいえ、立ちます。だってこの面白い学問に触れることで僕は死なずに済んで、今でも社会的な仕事を続けられているわけですから。それって生産的(死語)ですよね?
 このnoteにいる皆さんと同じように、僕は文学の持つ浄化の力を身をもって知っています。だからこそ、その世界のひとかけらであり続けたい。小説家デビューできなくとも、作品に高評価がつかなくても、たとえ創作を諦めたとしても、この世界の構成要素から外れることに比べたら、それらは大したことではないのです。卒業論文は創作とは違うけれど、文学の世界の営みの1つであることに変わりはありません。

 今年の春はとても嬉しいです。
 なのになぜだか、涙が溢れてきました。


〈補遺〉

 「信仰とはそもそも盲目的なのでは?」という疑問に対して、古来の宗教は様々な論考の経路や、幾重にも折り重ねて練り上げられた解を与えてくれます。それだけでなく近年、山本芳久さんが著した『トマス・アクィナス 理性と神秘』は、理性と信仰の関係について、『神学大全』の解釈の中から現代のさまざまなシーンにも通じる思考法を提供してくれます。残念ながらそれらを要約する力が自分にはまだないので、書籍の紹介にとどめておきます。

 文学の持つ浄化の力を特に強く感じたのは、平野啓一郎さんのデビュー作『日蝕』を読んだ時でした。理解も解釈も難しい作品ですし、種々雑多な評価もあります。正統な批評があるのかもよく分かりません。しかし「読む力」に乏しかった自分にも素晴らしい読書体験をもたらしてくれたという点で、何よりも大事に思っている作品です。

 「生きがい」について深く考え、社会人大学生の道を選んだ僕の背中を押してくれたものの1つに、神谷美恵子さんの『生きがいについて』があることは言うまでもありません。

 近頃、Twitterで35歳限界説が流行っていました。それに対して科学的な論文を引いて反論している人も多いです。僕はこう考えました。限界ならば生まれた瞬間からそこら中に存在しています。人は既にそういう世界で生きてきています。成功できないならやらない、成長できないなら意味がない、なんてつまらない考えこそやめた方が良い。

 2017年、某大学の卒業セレモニーで「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」といった内容の式辞が述べられたそうです。この場に居合わせた卒業生は幸せだと思いますし、無関係な僕がその恩寵にあずかることができたのもインターネット発達のおかげです。ここに書いた通り、僕も人生の岐路で文学に救われた人間の1人ですが、今はそれ以上に文学の本領を感じています。思うに、本や文や語は〈手を取り合って〉人々の心を支えています。常に。岐路に立っている時も、そうでない普段の日々にも。多読者にも、そうでない人にも。


ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!