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はじまりのスキ

以前のように、一枚のCDアルバムを大切に執拗に聞くことが少なくなった。完全にデジタル化されて体積のなくなった音楽には傷がつかない。だから古いCDの傷は愛おしい。
今こうして手にしているスマホにも何百曲、何千曲のデータが詰め込まれている。飽きることないランダム再生。バロック音楽に厳粛な気持ちになった5分後には、SPEEDが流れてきてテンション上がって踊りたくなる。
(あれ、なんだろう? このInstrumental、すごくいい。こんな曲持っていたっけ?)
画面を見ると、半ばコレクション的に詰め込んだ好きな作曲家のアルバムの一曲だった。おそらく感性も捨てたもんじゃない。

「スキ」という感情はいつごろ形成されたのだろうか?と考える。スキの種や芽が生まれつき備わっているものだとしても、対象との関係の中で築かれるスキっていつからなんだろう?
知らず知らず、古いスキにしがみついていることがある。原始的なスキは今のスキの基準だったり雛形だったりする。スキが180°変わってしまうことは少ない。恋愛対象の特徴が年々変化していくとしても、恋が芽生えた頃に感じた要素を他人の中に見つけると「ああ、これがスキというものだった」なんて思ってしまう。新たに好きなコンテンツを発見しても、古いスキとどこかで繋がっていることが多い。

10代の頃によく聞いたショパン。クラシックには多分に厨二病的な要素を含んでいる。厨二病がクラシック曲を聴くと、英雄も革命も夜想曲もファンタジーの一場面に変わる。いいじゃない?それで、と思う。
最近はショパンを離れていた。とうてい飽きてしまうような浅瀬ではないから、おそらくは長年連れ添った夫婦のような、空気のような存在になっていたのだと思う。メロメロに恋していた時期はラフマニノフを聞いたし、神秘に興味を抱いた時にはスクリャービンを聞いていた。
クラシックの推し変DD野郎。

先日、久々にショパンを流してみた。
「ああ、これがスキというものだった。浮気してごめんなさい」
ただ平謝りした。原始的スキに触れると、新しいスキがどれだけ打算的なものかを思い知らされる。スキに理由は要らない。言葉もあまり必要ではない。
恋人に自分のスキなところを挙げてみてと依頼して、スラスラと返ってくるようなら、相手にとって原始的スキではないのかもしれない。しかし、どちらにせよ(おそらく)スキであることに変わりはないから、落ち込む必要はない(と言い聞かせる)。
「俺とショパンとどっちが好きなんだよ!?」という質問の答えにラフマニノフが落胆したとしても、当然どちらも素晴らしい。

仲良くして頂いているnoterさんに「詩情とは何か?」と問いかけられて、真っ先に浮かんだのはショパンだった。「ピアノの詩人」などと称されるけれど、その事よりも、僕にとっての原始的なスキが詩情と関わっている気がしたからだ。
当然、ドビュッシーにもラヴェルにも詩情はある。しかし僕が彼らについて考える時、フランス詩だの印象派だのいった知識の雑音ばかりが多くなって、詩情について打算的な解しか出せない気がする。浅いちっぽけな知識しか持たなくても、奴らはだいぶ騒がしい。
ショパンを聞きながらならば、もう少し澄んだ気持ちで考えられるかもしれない。

原始的スキ、厨二病、詩情……
立体の各々の面のような、お菓子の材料のような、はたまた古い宗教書にある暗喩のような。
もう少し文章にできるように考えてみる。

突然ですが、この記事のタイトルのボツ案、もったいないので載せておきます。

『全てのスキに浮気疑惑』
『スキの正妻側室問題』
『スキのご寵愛独占バトル勃発、
 一番愛されているのはわらわじゃ!』

いずれも本文に似つかわしくないので、ボツとしました。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!