新宿中村屋に集った人びと

 志の高い芸術家たち、ロシアから来た全盲の詩人、インドから逃れてきた独立運動家。こうした人びとが出入りした新宿中村屋では波瀾に富んだ人間ドラマが展開しました。
 新宿中村屋は相馬愛蔵・相馬黒光夫妻が1901年(明治34年)に東京都本郷にパン屋「中村屋」を開業したのが始まりです。その後、新宿に移転して喫茶部も開設しました。店には芸術家、文学者たちが出入りするようになり、「中村屋サロン」と呼ばれました。

荻原守衛(碌山)(おぎはら・もりえ、ろくざん)(1879~1910)
 相馬愛蔵と同郷(長野県)の彼は、相馬黒光と知り合ったことをきっかけに洋画家を目指すようになりました。アメリカ、フランスに渡り、ロダンの「考える人」と出会って深く感動して彫刻家に転じて帰国。新宿にアトリエを構えて、黒光と再会します。そして、中村屋に出入りしながら「文覚」、「女」(どちらも荻原の黒光への思いを感じさせます)などの作品を遺しました。

中村彝(なかむら・つね)(1887~1924)
 子ども時代に両親をなくし、またその後の人生は結核で闘病生活を余儀なくされました。画家を志して、中村屋の裏のアトリエに移り住みました。アトリエでは相馬夫妻の娘である俊子をモデルとした作品も描きました。彝は俊子に恋愛感情を抱くようになりましたが、相馬夫妻は快く思わず、彼はアトリエを去ります。その後、やはり中村屋に縁のあったワシリー・エロシェンコと出会い、その肖像画を描きます。この「エロシェンコ像」はよく知られた作品です。

ワシリー・エロシェンコ(1890~1952)
 ロシアに生まれた彼は子ども時代に病気のため失明、盲学校でエスペラント(ラザーロ・ルドヴィコ・ザメンホフが考案した国際語)を学びました。その後、日本語も学んで、1914年に来日、中村屋を訪れます。そして、相馬黒光に身の回りの世話をしてもらうようになり、黒光を「お母さん」と呼ぶくらい親しくなります。社会主義運動に接近した彼は警察に連行され、国外退去させられます。その後は、北京で魯迅と交流したりしながら文筆活動などを続けました。

ラス・ビハリ・ボース(1886~1945)
 インド独立運動の活動家。イギリスによる弾圧を逃れつつ独立運動を支援するために、1915年、来日して亡命。孫文や頭山満と知り合い、一時期、中村屋のアトリエに身を潜めていました。その後も各地を逃亡生活。相馬夫妻の娘俊子と結婚しました。日本に帰化して、亡くなるまで祖国の独立のために尽力しました。

 新宿中村屋は、自分の思いに正直に生きようとする人を引きつける不思議な磁場を帯びた場所であったように思います。

 詳しくは、新宿中村屋ウェブサイトの「歴史・おいしさの秘密」から「中村屋の歴史」のページをご覧ください。

新宿中村屋ウェブサイト
https://www.nakamuraya.co.jp/

碌山美術館(長野県安曇野市)
http://rokuzan.jp/

新宿区立中村彝アトリエ記念館
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/tsune/40357/

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