1章【3】 環境から影響を受け、影響を与えてもいる自分に気づく

 ある状況で同じような反応を無意識にくり返すことで、その反応は強化されていく。誰にでも会話の癖がある。その癖が反応だ。癖で動いているとき、人は目の前のものも自分の感情も十分に感じてはいない。そのような癖で自分の対人関係が構成されていくと、徐々に自分の感情を感じることから遠ざかっていく。

 いつも行くカフェに不貞腐れた顔をしてレジ打ちをしている女の子がいる。

 彼女は他のバイト同士が仲良くお喋りをしているときも、まるでそこにいないかのように扱われている。接客のときの声は小さく、おどおどとしている。彼女にとってこのバイトは心地良いものではないどころか、働けば働くほど不快感が積み重ねられていくものであるように見える。

 だけど、彼女は毎日この小さな不快感を味わいにこの店に出勤しているのだ。

 彼女はだいたいレジにいる。

「こちらでお召し上がりですか?」

「はい」

「店内用のマグカップでもよろしいですか?」

「はい」

 このやりとりの中の「店内用のマグカップでもよろしいですか?」を彼女に言われると少し嫌な気持ちになる。他の店員に言われても、なんとも思わないのに。

 他の店員は「ご協力お願いします」と明るい感じでそれを言っている。それに対して彼女は「断られたらどうしよう」という感じでそれを言っているように感じられる。そのおずおずとした微妙な言い方をされると、何か断りたいものを受け容れなければいけないような気持ちになる。それが他人を不愉快にさせることに、彼女は気がついていないのだろう。

 また、彼女が「断られたらどうしよう」と思っているとしたら、いったい僕を含めたお客さんが店内用のマグカップを使うときにどんな気持ちになるか、店内用のマグカップを使うことを断る場合もあるのだろうかと、お客さんのことを考えたことがあるのだろうか。

 拒絶されることへの怖さにばかり強迫的に、しかし曖昧に意識を向けているせいで、自分がそのような癖を持っていることも、もし改善できるとしたらどのようなことができるのかということも考えないままに、毎日接客をしているのかもしれない。

 そういったちょっとした対人関係におけるストレスは、街の中を歩いていても訪れる。道ですれ違う人がまったく道を譲る気配がないときも、小さな不快感を味わう。

 彼女のような店員に注文をすることは心地良くはない。それを我慢して、僕はコーヒーをほぼ毎日頼んでいる。そこはビジネス街のカフェで他のお客さんたちはその彼女を見てもいない。彼女と目を合わさずに注文をする。そのとき、彼女のおどおどとした声がそのお客さんの耳に入る。その声が耳に入ってしまえば、お客さんの身体は必ず反応してしまう。心地良い声や音を聞けば、気分が良くなるように、反対のことも常に起こっている。

 だけど、そんな反応が起きていることをお客さんたちは気づいていないかもしれない。もしそうだとしても、気づいていても、気づいていなくても、日々の生活の中では、自分にも、相手にも、さまざまな反応が起こっているのだ。

 そうやって普段の環境の中で自分の心身には無数の反応が起きている。心地良さを味わってリラックスすることもあれば、強く不快感を覚えて怒ることもあるだろう。

 強い反応なら分かりやすい。しかし一方で、気づかないほどの小さな反応もある。自分の自覚していないパターンは、そういう気づいていない小さな反応があったときに起こっている。その反応に気づいたときに人は変わることができる。

 カフェの女の子は「いらっしゃいませ」とか、「ご注文はお決まりですか?」と聞くことにさえ、不快感を味わっているように僕には見える。発声をする瞬間に、接客中の彼女に満遍なく漂っている不貞腐れた感じにさらに、嫌々接客しているという感じが混じっていき、彼女の雰囲気がさらに悪くなるからだ。

 発声するとき、彼女の眉間には皺がより、肩には力が入り、少し下からこちらを覗きこんでくる。

 これは僕自身の感情や感覚を彼女に投影して、彼女がそのように動いていると思い込んでいるだけかもしれない。他人を観察するときはなるべく細かく見ることが大切だ。気になる小さな動きを一つずつ捉えていく。しかし、いくら細かく捉えたとしても、それは決して正しいものだとは言い切れない。観察されている当人にすら、それが正しいのかは分からない。他人を見て、自分がそう感じたということを大切にしながら、それを疑う姿勢を失ってはいけない。

 僕自身の生活にも満遍なく、僕らしい感じが漂っている。それを細かく見ていくと、あるときには心地良い方向へ振れ、あるときには不快な方向へと振れていることが分かる。

 心地良いものを見つけたら、その瞬間を大切に扱う。それは単によく通る道から見えるある風景でも構わない。僕はそのカフェから見える夕暮れの風景が好きだ。横断歩道をそれぞれの速度で渡る人たちが見える。やっぱりいい景色だなと見ていると、自分のことを繊細に感じられる心地良い状態になるのが分かる。

 反対に、不快なものを見つけたら、おっ! と立ち止まる。知らないうちにこんなものが日常の中に紛れ込んでいたのだということを発見する。別に歓迎したわけではない。カフェでのやりとりのように、それは勝手に侵入してくる。

 見つけたら今後はそれ自体を避けるのも一つの手だ。しかし、避けることのできないものなら、これが嫌だと思いながらもしばらくくり返していたんだなと、自分自身を感じてみる。どうすれば良いかなんて考えなくていい。ただじっと、その嫌な感覚を自分が感じていることを観察してみると、自ずとどうすれば良いかが見えてくる。考えて作り出す選択肢などよりも、自然と思い浮かぶ別の手段の方が遥かに優秀だ。いかに考えることが自らを今のままの状態に閉じ込め、思い浮かぶちょっとしたアイデアが新しい道を開いていくか。

 あるとき、女の子に、

「店内用のマグカップでもよろしいですか?」

 と聞かれたときに、

「いいですよ」

 と明るく返事をしてみた。

 彼女はハッとした感じでこちらを見た。

 僕もまた、彼女の言い方に対して、彼女を避けるように「はい」と簡素に答えていたのだ。僕が癖でしてしまっていたその反応を変えたときに、彼女は顔を上げた。二人ともいつもと違う反応をしたのだ。

 人は互いの環境に影響を与え合って生きている。そして、自分の反応を自覚して変えるだけで、環境は改善され、自分もまた改善された環境に対してより良い反応をするようになる。

 自分は環境から影響を受け、環境に影響を与えてもいることを知り、自分自身の振る舞い

を見つめて変えることで、自分も周りも変わっていく。

『あなたは、なぜ、つながれないのか:ラポールと身体知』より)


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