『あなたは、なぜ、つながれないのか:ラポールと身体知』プロローグ
渋谷のスクランブル交差点は世界で一番交通量が多いと言われている。
僕はいつもここで人と待ち合わせをしてきた。
あるときはナンパした女の子とのデートのために、あるときは風俗で働きたいという女の子の面接のために、あるときはナンパの講習のために。今は、カウンセリングのクライアントと待ち合わせをしている。
この場所で、顔を上げて、目を開けて、周りにいる人の顔を見ながらすっと気持ちを落ち着かせて立つことは難しい。
少しでも他人を怖いと思うと、それができない。他人と目を合わせるのが怖くなり、姿勢は少し前屈みになってしまう。目の前にあるすべての目を見るつもりで、周りに意識を向けてみると、身体の中に周りの人たちの意識が入っては抜けていくことがくり返されているように感じる。
いつもこうして立ってみて、今の自分のコンディションを確かめる。
ぎこちなく動く人々の流れが僕の方へと押し寄せてくる。
彼らの動きは固いが、それぞれがギリギリぶつからないようにして動いている。皆、殻に閉じこもって周りを見ないまま、この人の多い場所を通り抜けようとしている。周りに気を配る余裕はない。仕事や、互いに圧迫し合う人間関係に疲れているからかもしれない。
老婆がその中でなんとかゆっくり歩いている。
多くの人が彼女に当たらないよう、彼女の横をすれすれで避けて追い抜いていく。皆、彼女を他の人とは違う速度でイレギュラーにゆっくりと動く「モノ」としか認識していないように見える。
周りのビルに取り付けられた広告用のスクリーンからけたたましく流れる音楽や映像が、彼らの殻を貫き通そうとしている。彼らには気づかれないうちに、その音や映像のいくらかは、彼らの耳や目を通って内部に入り込んでいる。そして、残りのいくらかは彼らに受け取られることを拒否されて、彼らの殻を刺激し、ストレスを与えて、その殻をさらに強くするきっかけを与えている。
周りを見ず、自分の殻に閉じこもって動いていた人々は、群れると突然大きな声を出す。
閉じていた殻が突然開いたというよりは、殻を閉じたまま刺激に負けじと叫んだり、笑ったりしているように見える。その笑いは、楽しいから笑っているというよりも、自らの存在をアピールするためにしているかのようだ。
彼らの大きくて高い声が周囲の刺激と混ざり合いながら、僕の耳に乱暴に流し込まれる。
彼らの強張った激しい動作もまた圧迫感を与えてくる。身体の中に嫌な緊張感が流し込まれたような感じがする。それを拒絶すれば、僕にもまた殻ができてしまう。呼吸をして、その緊張感を身体の中に流し込み、その流れを感じて、それらが僕の身体から出ていくのを待つ。
サラリーマンが全身を強張らせ、肩をいからせたまま、ずんずんと近づいてくる。彼は僕の存在を、先の老婆同様にただの「モノ」のように思っているのか、速度を緩めずに通り過ぎていく。僕の身体は一瞬緊張する。その緊張を、呼吸を止めないようにして流す。
*
ここで生きていくためには、彼らよりももっと大きな声を出して、彼らにぶつかっても勝てるような、もっと硬くて強い身体を手に入れなければいけないと思っていた。
僕も楽に生きていくために殻が欲しかった。
居酒屋のキャッチや水商売、風俗、芸能のスカウト、ナンパ師。彼らはこの殻に閉じこもった人たちが集まる場所で、見知らぬ他人に声をかける。彼らはこの場所を何事もなく通り抜けたいと思っている人々とは対照的に、ただただ無遠慮な関わりを他人と作ろうとし続ける。
彼らは拒絶には慣れている。
彼らは無視されても何とも感じない、硬直した身体をすでに手に入れている。
僕にスカウトを教えてくれた上司に、風俗嬢との会話がなかなか噛み合わず難しいと相談したとき、上司は彼女たちについてこう言った。
「そりゃ、毎日おっさんのチンポを舐めてたら気が狂うやろ。あいつらはおかしくなってんねん」
それを聞いて、僕は安心した。僕がおかしいのではなく、彼女たちがおかしいのだと思えた。しかし、スカウトをしている僕も同じだと思った。
毎日、おっさんのチンポを舐めたり、好きでもない人に好きだと言って、自分の感覚を殺しながら仕事をしている人たちに、無視されながらも声をかけていたら気が狂う。
人は、自らの欲望に従ってしか他人に対して働きかけることができないのだろうか。
*
男性が僕にぶつかった。
硬い肩が僕の肩に衝撃を与える。そして、舌打ちが聞こえた。ぶつかった衝撃は僕の中で怒りという感情に変わる。
そのとき、スカウトで声をかけたときのことを思い出した。西武デパートの前で三〇歳くらいの女性に声をかけた。それなりにきちんとした服装をしている人だったが、どこか動きが歪で、生活に不満がありそうだと思い、彼女の殻を破るため、人を欺くために身につけた笑顔で声をかけた。
このときすでに僕もまた硬直した身体を手に入れていて、そのうえ、他人の殻を貫いて破る武器も手に入れていたのだった。そして「街にいる無感覚になった人間を風俗に落としたい」と、何かに対する復讐のような気持ちを抱いていた。
「すいません、スカウトなんですけど……」
目が合った。「これは怒りのこもった危ない目だ」と思うや否や、彼女は金切り声で叫んだ。
「あんた! 私がそんな仕事すると思う⁉ ちゃんとした仕事してるんだけど‼ 見たらわかるでしょ‼」
この女性は僕に叫んでいた。しかし、彼女の叫びは、僕とは関係のない別のところから溢れ出てきたように感じた。
肩がぶつかった彼の舌打ちもそうだ。
彼らは殻にこもって歩いていた。けれど、ちょっとした刺激で殻が破れて、感情が溢れ出したように見える。一見分厚いけれど、脆くて敏感な殻。
殻にぎゅうぎゅうに閉じ込められた行き場のない感情は、溢れ出すきっかけをいつでも待っている。
そして、そのきっかけはそこら中に転がっている。
僕は彼女からさっと身を引いて、逆方向に退いた。
彼女の逆上は相手を失って路上に残った。
僕は見も知らぬ彼女に復讐したくて、彼女に話しかけたのではない。自分の閉じ込められた感情をぶつける標的に、たまたま彼女を選んだだけだ。別に誰でも良かった。
そして、いったいどんな感情が自分に閉じ込められていて、何のための復讐をしているのかを自分では知らなかった。ただ他人を攻撃したい気持ちだけがあった。
彼女の怒りもまた、そうだったのではないだろうか。たまたま自分の中に溜まった怒りをぶつける相手が現れただけではなかっただろうか。
そのとき、僕の殻は破られるどころか、より強くなっていた。彼女の破られた殻もまた、その嫌な体験の後により強く修復されたかもしれない。
――人と接するということは、自分の内面を隠して、殻に閉じこもって、虚勢をどれだけ張れるかを競い合うゲームでしかないのだろうか。
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