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「眠り姫たち」#シロクマ文芸部(書く時間)

 書く時間がすぐに必要だ、と清子さんは運転しながら焦っていました。すごく美しい言葉がしゃぼん玉のように浮かんでいるのです。滅多に車の運転をしない清子さんですが、従兄の貫之兄さんからもらったお古ぽんこつの真っ赤なミニクーパーを持っています。丘の上に引っ越してから週に一度スーパーマーケットにまとめ買いに行く時に使っています。だってほら重い荷物を持って坂道を登ったら、清子さんはその日一日ノックダウンになってしまいますから。

 不思議なことに、運転をしているとふとした言葉が心に浮かんできます。きょろきょろと周りの景色を眺めているからなのですが、本当は運転に集中していなきゃいけないのに!と反省だってしています。それは菜の花畑から我が物顔で出てくる白猫だったり、フロントガラスについた雨粒だったり、誰かの家の庭先にある大きなさくらんぼの木だったり、はたまた鰯雲がトビウオ風だったり、と目に入ってきた「発見」に思いを馳せていると言葉はふわりとやってきます。それにしてもどれだけよそ見しているんでしょうね。無事に帰ってこれることは清子さんの七不思議の一つらしいですよ。

 その心に浮かんだ言葉ですが、ふわふわと飛ぶしゃぼん玉のように、キャッチするのが難しいのです。ゆっくりふわふわですから、簡単そうですが、何せ運転中ですから、追いかけるわけにもいきません。すぐに書き留めておきたいところですが、これまた運転中ですから、それも叶いません。「絶対に忘れない!」と意気込んで、心のノートにメモしながら、三回繰り返して口にします。家に着いたらすぐに書くぞ!とも意気込んでいます。それはもうものすごく大丈夫そうなのですが、何せしゃぼん玉ですから、パチンと消えてしまう瞬間が、ごく簡単に訪れるのです。こういう時は、次から次へと清子さんの目も心も楽しく飛び回っていますから、あ、と次の発見をした瞬間に、また別の言葉が生まれてきて、同時に一つ前の言葉はすうっと離れていきます。

 家についてすぐにノートに向かいます。アイスだけは冷凍庫に入れてからです。
「さあ、書く時間がやってきたわ!…あれ?なんだっけ?」
やっぱりです。あの時あれだけ焦ったのはこのせいです。言葉の輪郭りんかくはふんわりと見えているのですが、肝心の言葉そのものが見つかりません。なんだっけ?なんだっけ?といろいろな言葉を思い浮かべるのですが、
「惜しい!」「違う!」「またダメだった!」
とのれんに猫パンチをしているような感じになって、だんだん絶望的になっていきます。本当にがっかりしてしまうのです。

 でもそれはそう、清子さんですから、お気に入りの「井村屋のあずきバー」を一本食べ終わるとご機嫌を取り戻し、とっておきのノートを取り出します。このノートには、こうして消えていってしまった言葉たちのために、その言葉が浮かんだ瞬間に見ていたものや思い浮かべたことを書いてあります。もうずいぶんとたくさん集まりました。そしてノートの内表紙には「眠り姫たち」というタイトルがつけてあります。

 こうしてすり抜けていった言葉は、自分の中で眠りについている、と清子さんは思うことにしています。そうしていつか目を覚まし、また仲良くしてくれると。

🌼

小牧さん、毎週どうもありがとうございます。
無事に書くことができました。

このお話は「消えた鍵」を探す清子さんの別のお話です。

いただいたサポートは毎年娘の誕生日前後に行っている、こどもたちのための非営利機関へのドネーションの一部とさせていただく予定です。私の気持ちとあなたのやさしさをミックスしていっしょにドネーションいたします。