政党メレツの思い出

イスラエルの政党メレツが最低得票率に達しないらしいことが明らかになった日に

2015年12月5日<記>
今年は冬になってもなかなか気温が10度以下には下がらなかったが、今年初めて冷え込んで、うちでもストーブを点けた昨夜遅く、前のメレツ党首、イスラエル政治の良心であったヨッシー・サリッドが、心臓発作で亡くなった。75歳。先週も元気でラジオ番組で語っていたのに。
http://www.haaretz.com/israel-news/1.690131

FBのタイムライン上で最初に反応して追悼文を書き始めたのは、時差のせいか、アメリカや東大に留学中の院生たち。若い人たちにもこれほど深く尊敬されていたのか、と改めて思う。うちの大学の人文学部付属カフェテリアを貸し切って、メレツと語る、とか、ヨッシー・サリッドと語る、といった学生向けイベントがしばしば催されており、飄々とキャンパスを歩いていた姿が思い起こされる。

イスラエルの政局は、いわゆるリクードと労働党の二大政党制が長かった。その二大政党の間で、宗教政党がキャスチングボートを握るという構図である。その古き良き時代の、労働党が政権を取った時期(1999年)に、サリッドは短期間だが教育相の職にあった。息子が学齢だったのでよく覚えている。サリッドは、義務教育における聖書や祈祷書の時間を増やそうとする宗教政党の主張を退け、アラブ詩人の詩をはじめとする他民族の文学を学ぶカリキュラムを導入した。英断だったと思う。それが古き良き時代の思い出になってしまったのは、きわめて残念ではあるけれど。

 その後、いわゆるリベラル派がいろいろと汚い手を使うのも見たけれど(戦っているものどうしが、互いに「敵」と似通ってくる現象は至るところに見られる)、ヨッシー・サリッドは、人間としても信頼できる、筋金入りの「左派」であった。その死を悼む。

ヨッシー・サリッドのハアーレツ紙上コラムから。

「公職にあったときは、何千通もの手紙をもらった。その中で忘れられないものの一つは、レバノン戦争で息子を戦死させた父親からのもの。彼は、自分はあなたとあなたの意見に反対するが、息子はあなたに投票するつもりだった、だから自分は息子の代わりに次の選挙であなたに投票する、と言う。私は車を走らせてその遺族のもとに行き、父親の決意を和らげようとした。だが父親はその考えを変えなかった。選挙での私の得票のうち、最も重い一票であった。その一票が、今日に至るまで私を導いた。」
http://www.haaretz.co.il/opinions/1.2393332


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