古代イスラエルにおけるレビびと像「結語」

なんだか「はじめに」だけ公開するのも…というナゾの何かに駆られたので「結語」も公開。これはシャープのワープロ「書院」で書いていたから、テキスト原稿が残っておらず、OCRにかけました。註の叙述とか、今読むと時代を感じるなあ。
『古代イスラエルにおけるレビびと像』ICU比較文化叢書3、山森みか、1996年。
Copyright ©1996 Mika Levy-Yamamori 1996

結語 レビびととイスラエル民族
 本稿の冒頭においてわれわれは、「何故このように両義的な表現を負わされた曖昧な集団がイスラエルにおけるヤハウィズムの中心に位置していたのだろうか?」、あるいは「何故ヤハウィズムの中心に位置していた集団に、このように両義的な意味が付与されたのだろうか?」という問いを設定した。そして第1章においてはイスラエルの政治社会史においてあり得たレビびと像の可能性を探り、第2章ではレビびとをめぐる互いに矛盾する諸表現及びその表現の背後にあるレビびとに対する位置づけを考察した。最後にこの冒頭で立てた問いに答える形で、レビびとがイスラエル史において担った役割を整理したいと 思う。
 本稿におけるわれわれの関心はイスラエル史におけるレビびとの実体を詳細に想定することではないことは繰り返し述べてきた。しかし、われわれはイスラエル史を通して何らかの活動を行ったレビびと及びそのレビびとを位置づけた人々の存在を否定することはできない。以下に述べるのは、実体として想定したレビびとではなく、レビびととレビびとを位置づける側の第2章で述べたような関係に焦点を当て、あくまで類型として抽出したレビびと像である。またより正確に言うならば、われわれが抽出したレビびと像は、歴史状況の変遷 の中でのレビびとの自己理解と人々の位置づけの重なり合いと不一致を説明す るためのわれわれの基本的視座なのである。 
 われわれはレビびとはイスラエルにおけるアイデンティティの確立に重要な役割を演じたと考える。この側面を考察するに当たって、われわれは以下において「われら」、「かれら」という用語の使用を試みてレビびとの意義を総括しておきたい。「われら」、「かれら」は、一般的に言えば共同体コスモロジーの内部と外部を分けるカテゴリカルな思考様式であるが、これもまた決して実体的な概念ではなく、関係概念として用いられるものであることを強調しておきたい1)。

A)王国時代以前
a) レビびとの役割
 王国時代以前におけるレビびとは、平等な兄弟団という理念を具現するモデルであり、ヤハウィズムにおける日常倫理を伝達する教育者であると同時に、 規律違反者に対しては苛烈な処罰の執行者であった。このような活動において、彼らはモーセを創始者とするヤハウィズムの秩序を維持したのである。こ の時代において、レビびとにとっては非日常性と日常性、軍事性と政治性及び宗教性は乖離しておらず、レビびとの担う理念は彼らの生のありかたと直結するものであった。またレビびとはヤハウィズムの中心とも直結しており、なるほどその「負」の部分を担ってはいたが、それは人々の蔑視ではなくむしろ畏怖を引き起こす性格のものであった。レビびとは、こうしてヤハウェの意志を兄弟団の成員に直接的に伝達したのである。誤解を恐れずに言えば、レビびとがこのような形でその「本来の任務」を十全に行うことができた時代は後にはなく、この時代こそがレビびとにとって最も「幸福な」黄金時代であったと言 えるだろう。レビびとにとっては兄弟関係に入ってその規律を実践する者すベてが「われら」であり、兄弟関係に入っていない者、またその規律を犯した者が「かれら」として認識されていたと言えよう。それ故レビびとは、「われら」の秩序を乱す規律違反者を「われら」から除去したのである。

b) レビびとの位置づけ
 一方レビびと以外の人々にとって、このような任務を担うレビびとは畏怖と聖視の対象であると同時に、また「われら」のモデルとしても捉えられた。レビびとのように振る舞うこと、レビびとの懲罰を受けないように生きること、レビびとが担う秩序を乱さないことにおいて、兄弟団の一員としての彼らのア イデンティティが獲得されたのである。だがヤハウイズムの中心と最も近く、 ときには厳しい懲罰活動を行うレビびとの姿は、レビびと以外の人々の「われ ら」と常に重なるわけではなかったと思われる。故にレビびとは「われら」の モデルではあるが、厳しい処罰を行ったり激しい怒りを表したりするレビびと像に見られるように、レビびと以外の人々にとっての「かれら」としての側面 をも合わせ持つ存在として捉えられていたと言えるだろう。 

B) 王国時代
a) レビびとの役割 
 王国時代においてレビびとがその理念を具現していた場が実質的に解体されると、レビびとは四散の運命を辿った。レビびとは様々な生活手段により、 様々な場所で生きることを余儀なくされたのである。こうしてレビびとは、その実態を一つの枠組みの中だけでは理解することができないという曖昧さを獲得したのだが、ヤハウィズムの中心的担い手としての名前は維持し続けた。このようなレビびとが王国時代の体制に組み込まれた場合は制度によるその地位の承認を受け、また一方でレビびと側はその制度を支える名を提供したと考えられる。
 またレビびとはかつての理念を維持し、かつそれを純化した場合、政治的、 宗教的な意味において復古的あるいは反体制的な立場を取る場合もあった。こ の類型のレビびとは、自分たちこそが真のヤハウィズムの担い手であるという自意識に基づいて時代遅れの理念を主張する些か滑稽なレビびと像へとつながることになる。この類型のレビびとは、.かつての「われら」の意識を強烈に維持しつづけたであろう。彼らはかつてと同様にヤハウィズムに基づく日常倫理の実践を説いたのであるが、彼らの担う土地の非所有と血縁紐帯の離脱という理念は、レビびと以外の人々の定住の現実の中では非日常的なものとして位置づけられるものであった。
 それとは別に、理念を維持しきれずに地方の私的聖所ゃ高き所の祭司となって、自分ではそれと気づかずに沃地宗教との混淆に陥るレビびとの類型も考えられる。彼らは自意識と実態を乖離させつつ、その内実を変容させていったのである。この類型のレビびとも、その自意識と実態の乖離が蔑視の対象とな り、滑稽なレビびと像としての性格を獲得したと思われる。またこの類型のレビびとにとっての「われら」とは、士師記17章以下で語られるミカに雇われ、 後にはダンびとと共に去ったレビびと像に見られるように、具体的に目の前にいる私的顧客であったのではないだろうか。それ故彼らにとっての「われら」 は、私的顧客の事情に応じて行われる彼らの「魂のみとり」の活動と同様に、 状況に応じて変化するものであったと考えられるのである。
 だがどちらの類型の場合においても、レビびとが民衆に近いところで教育及び日常倫理の維持に当たったという点は共通する。そしてヨシヤ改革においてこの四散したレビびとを再び「レビびと祭司」という呼称のもとに統合する試みが行われ、レビびとにはその「本来の任務」に準じた役割が政策の一環として与えられた。これは、かつてのようにレビびととヤハウィズムの中心との独占的かつ直接的な結合を意味するものではなかったが、経済的に没落したレビ びとや沃地宗教と混淆して蔑視されていたレビびとに、再び正統的ヤハウエ主義者という名が与えられたという点において注目されるべき事態であった。

b) レビびとの位置づけ
 王国時代以後レビびとを位置づける側は、土地所有を行い、定住するという世俗的文化秩序の中にいた。土地所有という生活形態は社会の内部に富裕層と困窮者という階層分化をもたらすものであったし、また沃地文化が浸透するにつれ、かつてレビびとが担った放浪する平等な兄弟団の理念は現実性のない全くの理念に過ぎなくなった。このような現実に生きる人々にとって、過去のヤ ハウィズムの復古的な理念を依然として抱き続けるレビびとは、やはりかくあるべき「われら」のモデルであり、レビびとの語る日常倫理の実践こそがヤハウィズムへの帰属の方法であると考えられたであろう。この復古的なレビびとは、零落しているか否かを問わずやはり「われら」とは別の地平に生きる「かれら」であり、畏敬の対象であったと思われる。この「かれら」即ちレビびと の理念によって「われら」の現実が批判されたのである。だがそれと同時に、 復古的なレビびとのアナクロニズムの滑稽さもまた発見されたのではないだろうか。そしてこの場合には、例えば士師記18—19章で見られるように、レビび とは嘲笑あるいは揶揄の対象としての「かれら」としての性格も獲得したと考えられる。しかしまた一方でモデルとしてのレビびとの役割を考えると、この揶揄は確かにレビびとという「かれら」に向けられてはいたが、同時に本来あるべき「われら」の姿にも向けられるものであったことは言うまでもない。
 さて上記の復古的なレビびとの類型とは異なり、その理念を維持しきれずに 変容したレビびとは、明らかな揶揄と蔑視の対象としての「かれら」と位置づけられたと思われる。このようなレビびとは、ヤハウィズムの担い手であればこうなってはならない「反面教師」としての「かれら」であった。この場合の レビびとは、単なる蔑視の対象ではなく、イスラエル人のヤハウィズムへの帰属意識を逆方向から育成したのではないだろうか。ヤハウィズムの理念を失って様々な生計手段をとるレビびとの姿は、同時にまた定住の現実に生きる「わ れら」自身の姿でもあったからである。また階層分化がもたらす様々な状況において魂のみとりを必要とする個人の数も増大したことから、「われら」は現実的に「かれら」を必要としたという要素も指摘し得る。それ故この場合にも、「かれら」を揶揄することが同時にまた「われら」への揶揄へと転換されたことが考えられるだろう。
 王国成立以降は四散して、一定の社会的地位を獲得していなかったレビびとが、結果的にイスラエル人のヤハウィズムへの帰属意識を形成したこと、また 「かれら」を畏怖と蔑視の対象とする「われら」がその「かれら」とつながるものであるという認識を浸透させたことが、ヨシヤの宗教改革及び捕囚期以後においてレビびとの意味が再発見される基盤となったと思われる。ヨシヤの宗教改革においては、この四散していたレビびとが正統的ヤハウェ祭司という「名」の下に再統合され、必ずしも「実」が伴っていたわけではなかったが、 レビびとに一定の社会的地位が付与された。そしてまた孤児や寡婦といった社会的困窮者層と並び称せられるような「かれら」であるレビびとが、イスラエルにとっては不可欠なものであることも主張されたのである。

C) 捕囚以後
a) レビびとの役割
捕囚及びそれ以後の時代には、レビびとはヨシヤ改革で獲得した一定の地位 の基盤を失い、再び解体された。帰還後の第二神殿において、レビびとは聖なる祭司とノーマルな民という両者の間に立つ中間的な下級祭司職に就き、祭司ヒエラルキーの秩序の中で一応固定化されたと言えるだろう。具体的な様々な祭司職に就いたレビびとは、祭司と民を仲介し、伝統の守り手、伝え手、解釈者としての活動を行ったのである。この下級祭司レビびとの職務において、再 びヤハウィズムの担い手としてのレビびとの自意識と実態がある程度合致したことが考えられる。しかしこの具体性に固着するレビびとの抽象性の欠如は、 結局捕囚期以後の現実に対する救済を自ら提供できるものではなく、レビびと自身は固定化された中間的地位という曖昧さの中に埋没して行ったことが推察される。

b) レビびとの位置づけ
 捕囚によって国家という生の現実的基盤を失ったイスラエル民族は、今度は外の世界において自分たち全体が「かれら」と位置づけられる状況に陥った。 この「かれら」と位置づけられ蔑視される生の現実的基盤をもたない全民族的状況において、彼らには「われら」を維持するための何らかの理念が必要であった。こうして彼らは王国時代にこの民族の特殊な部分であったレビびとが陥った状況と類似する状況に置かれたのである。彼らはかつてレビびとが抱えていた諸矛盾に直面することになった。その矛盾とは、例えば理念の保持と現実に応じた法解釈の間にある緊張であり、「われら」の基盤を血縁性に求めるのかあるいは理念(宗教)に求めるのかという選択であり、あるいは「選ばれた存在であること」、「蔑視される存在であること」に日常的にいかにして耐え続けるかという問いであった。復古的な理念を維持し、アナクロニズムの象徴であったレビびとが、結果的にイスラエルの歴史展開を先取りしていたのである。それ故に捕囚後のイスラエル民族は、彼ら自身の神との関係をレビびとに代表させて、民族としてのアイデンティティの維持を図ることを試みた。捕囚期以後において、レビびとが「イスラエルの初子」としてヤハウヱに捧げられたものであることが再発見されたことは、そのような試みの一つとして意味づけられる。レビびとが非日常的な状況において日常倫理を維持し続けたよう に、あるいは日常的な場において非日常的な理念を維持し続けたように、イス ラエルの民もまた日常と非日常の緊張にそれ以後ほぼ永続的に耐えることにな る。この中で彼らが担い得た理念は、大きく分けると、新しいユニバーサルな 救済の普遍性への志向と、過去のイスラエルの理念への固着という、二つの方向であったと言える。これは、王国時代において変容を迫られたレビびとの二つの方向性にほぼ重なるものであった。このときにおいて、イスラエルの人々はかつて「かれら」として位置づけていた過去のレビびとの姿を、今や外部から「かれら」と位置づけられるようになった自分たち自身の姿として再び意味づけた。そして「かれら」であったレビびとを含む新たな「われら」=「かれら」のイメージが創出されたと考えられるだろう。この二つの地平の独特の融合がレビびとに両義性を付与する決定的な要因である。それ故イスラエルの自己理解においてレビびとは最早「かれら」として固定化される道を辿ることな 2)、イスラエル人の「われら」に重なる「かれら」として、聖書の最終的編集段階における文学的な諸場面においてイスラエル人のアイデンティティの創出に貢献するフィギュアとなったのであった。


1) 往々にして「われら」には正の符号が、「かれら」には負の符号がつけられることも指摘されている。赤坂憲男、『異人論序説』220-251頁を参照せよ。
2) 網野善彦は、日本においては中世以後、非農業民たちが担った無縁、無主、無所有の原理が体制化され差別として固定化されることで、権力によって無縁の権利が認められるようになり、それを無縁に属する人々も利用するようになったことを推察している(網野善彦、『無縁・公界・楽』)。だがイスラエルにおいては、このような差別の固定化が行われなかったことを指摘しておきたい。

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