距離感について(2015年9月1日記)

先日(つまり2015年の夏)は、スペインだかの音楽祭に、アメリカのユダヤ人の歌手が、パレスチナ国家設立を支持していないという理由で出演を断られていた。そういうことはアカデミズムの世界でもよくあって、欧州ではイスラエル人研究者の国際学会ボイコットが叫ばれることがよくある。アカデミズムと政治を混同するのは、気持ちは分かるが、少なくともアカデミズムにとっての結果は不毛だと思うが、それは置いておいても、その結果、内心は隠して、表面上はいわゆるリベラル、いわゆる左派、いわゆるイスラエル徹底批判パレスチナ絶対支持をビジネス上便宜的に打ち出す人々が出てきている。そうなるともう、誰が何を本当に考えているのかが分からなくなり、議論もできなければ、ただでさえ見えない解決もどんどん遠くなる。いいことは一つもない。

そんなことを考えていたら先日、海外(日本でもイスラエルでもないという意味です)の大学に勤める知人の研究者(ユダヤ教に改宗した人)が、自分は真面目にユダヤ教を信じていて、本当は敬虔な服装、具体的には長いスカートをはきたいのだけれど、そうすると「あなた、そういう人(正統派の保守的ユダヤ人)だったの」みたいな白い目で、大学では圧倒的多数を占める左派リベラル研究者仲間に見られてしまって仕事がやりにくくなるから、普段はやむなくジーンズとかをはいているし、SNSにアップする写真も宗教的に見えない服装にしていると言っていて、そうだったんだ~と思った。

左派リベラル陣営は、イスラム女性の敬虔な服装はマイノリティの権利として尊重しても、ユダヤ人女性のそれには冷たいんだ、と思った次第。いや私もどちらかと言えば、心情的にも立場的にも、左派リベラルに属しているのだけれど、左派リベラルの目を気にしてSNS上のプロフィールを粉飾しなければならなくなってるのが現状なんだっら、左派リベラルに未来はないと思うよ。

ムスリム女性の敬虔な服装はマイノリティの権利として尊重しても、ユダヤ教正統派のそれには反発する人々(多くは欧米のリベラルなクリスチャン及び世俗派ユダヤ人)の傾向はどこから来ているのか。大きい理由の一つは、自分との距離感であろうか。近ければ批判すべき点が明確で反発しやすい。遠くてあまりよく分からないことについては、全肯定しても自分にさしたる影響はない(故に全否定する人もいる)。

たとえば日本に留学したイスラエル人女子学生(世俗派ユダヤ人)が、日本人の女子学生たちとタンクトップに短パンで汗だくになってバレーボールに熱中していたとき、通りがかった男子学生たちが一緒にやろうと言ってきたとたん、彼女たちが肩を覆うTシャツに着替え、また自分にも着替えるようアドバイスしてきて、「ユダヤ教正統派に同じことを言われたらものすごく腹が立って意地でも絶対に着替えないけれど、日本人の女の子たちに言われたら特に腹も立たず素直に着替えてしまったのは我ながらフシギ、あれは何だったんだろう」とFBに書いていた。ユダヤ教正統派は、税金も納めず兵役にも行かないから、世俗派ユダヤ時に嫌われているのです。

で、ここから先は自分でもうまく考えがまとまっていないのだけれど、西欧におけるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の間の距離においては、クリスチャンの側がユダヤ教を自分たちにより近いものと考えていることが、いろいろな軋轢のベースにあるような気がする。西欧のクリスチャンは、ユダヤ人に、自分たちと同じ文化規範に立つよう求めている。具体的には人権や戦争時における国際法の遵守、人種差別の撤廃など。それで、ここからはかなり微妙な展開なのだけれど、イスラム教徒にはそれをあまり求めていないように見えることがある。あるいは求めるとそれは、いわゆるマイノリティの文化への侵害になり、反発が大きいから求められないのかもしれない。それがよくも悪くもダブルスタンダードを引き起こし、どちらの側から見ても、不公平感が募るという構造。つまりユダヤ人に対する期待は大きく、イスラム教徒に対する期待値は低い。よってユダヤ人には厳しく、イスラム教徒の言うことには比較的寛容、みたいな。そしてその距離感が、ある種の人々によるイスラム教徒に対する絶対的非寛容にも通じているのだとすれば、なかなか根は深く、解決は困難かもしれない。

これは私の見立てが間違っているかもしれないので、今後も考えていきたい。

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