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陰陽と空と自分と自分じゃないこと


正負の法則は、陰と陽を誤解していると思います。
陰の中に陽がある、逆も然り。だから良い事の中に悪い事という連動、逆も然り。
こういうロジックになっていると思います。

私は、陰陽道と般若心経の空を同時に考えて、かねてからの私の思いです。
白の世界は白を感じられない。
私が光であれば、光の中では私がどこにいるのか存在しているのかさえ分からない。暗闇の中で光ることで自分の存在が観え、自分は何なのかが理解出来ます。
私が暗闇ならば、暗闇の中では消えます。光の世界に飛び込むと、自分はどんな暗闇なのかが存在します。
だから黒の世界に存在することで白の実感を得る経験をする、これが私たちの相対的な次元であり、だからこそ、この社会に生まれてきたと理解しています。

空の概念。あらゆる現象は相対的。
例えば、健康は不健康な世界だから存在する。みなが健康だと「健康」は無いです。
自分の本質と違う社会に生まれて、
自分の本質じゃないことを体験するから、
自分の存在を実感し自分の本質を理解する、

このように考えます。
自分を存在させるための実態のない幻想が諸法無我だと思います。

諸行無常とは「順風な人生も、いつか終わる」、だから良い事の後には悪い事が起こる正負の法則があるとされます。
これは誤解です。平家物語の影響だと思います。
諸行無常の本当の意味は、万物は流転している、全ては動いているから、過去の経験は今の原因ではなく、未来の不安は今の結果ではない。
因果も流動するから今しかないのです。

ブッダは諸法無我と諸行無常をとなえました。
自分は自分の周りの相対的な世界で自分を感じ、だから実態がなく意識の流動によると、私は解釈します。
そしてその意識の元の自分とは。

「自分探し」。最近はこの言葉は使われないけど、人は何を自分が望んでるのかと自問します。
無限の存在は、ビッグバンに分裂して、全ての自分がありとあらゆる経験を得て、自分に戻り自分を知る、究極の自分探しをしています。
だから、私たち1人1人が「自分って何?」って答えがわかるわけないですね。

みんなが自分である世界の中で自分は見えにくいとも言えます。
だから自分の中の差で自分は何かを見ようとします。
激しく違う波の中で、もう十分に違いが分かったから、自分に近い波の中で自分を楽しんでいく、それが住み分けかもしれません。


ブッダや先人達は凄いですね。
でも後ろの人達が上手く解釈出来ず、歪められています。
だから歪めたまま矛盾が更に歪まりましたが、アシュタールさんのおかげで、解釈が整ってきたような気がします。



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