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同じ船に乗って、同じ虹のもとへ

あなたは何を求めて、虹のもとへ集ったのですか?
あなたは何が欲しくて、虹を仰ぎ見るのですか?

虹って、本当に儚いものですよね。
匂いもしないし、手にも触れられない。雨が降らないと現れないし、やっと見えたと思った途端、すぐにまた消えてしまう。
儚過ぎて、本当はただの幻ではないかと、疑ってしまいそうなほどです。
疑いながらも、そこに何かを求めずにはいられない、そんな自分に気付いてしまいます。

私もそう思います。

例えば虹色の行列で闊歩し、色々な人々と熱情的なハイタッチを交わしながら、「ハッピープライド」を口にしてみる時。
例えば宵闇の二丁目を漫ろ歩き、次第に賑わっていく街を微笑ましく眺めながら、自分の行きつけの店へ向かう時。
例えばアルコールを片手に、大音量の音楽に合わせて無我夢中に身体を揺らす時。

まるで世界に祝福されているような気分ですね。本当はそんなことないのに。
私達はよく分かっています。世界は祝福なんかしてくれない。法律や政治は味方なんかになってくれない。私達は結局のところ、世界の小さな小さな片隅に追い込まれて、そこで涙を流しながら傷を舐め合うことしかできない。
痛みを堪えながら、嵐に耐えながら、手を取り合って、慰め合うことしかできない。

「もう大丈夫。ここにいれば大丈夫だよ」と。

同様に私達もよく分かっているはずです。私達はお互いを理解してはいない、と。理解する術がないのだ、と。
これはゲイがレズビアンを理解できないだとか、シスジェンダーがトランスジェンダーを理解できないとか、そういう話ではないです。
私達はそれぞれ個人として、ただささやかな共通点のために虹のもとに集ってきた、ただそれだけです。烏合の衆。
それぞれ違う成り立ちがあり、違う痛みを抱え、違う考えを持っています。
虹のもとへ集ってきた理由も、虹に求める「何か」も、きっと違うはずです。

誰も私のことを本当の意味で理解することはできない。私も誰かを本当の意味で理解することはできない。
私達はそれを分かっているはず。多かれ少なかれ、それを分かっているはずです。

それでも私達は虹のもとを去ることができない。
虹の旗、それは世界という名の嵐から身を守るための避難船なのです。
私達はそこで慰められ、癒され、場合によっては思いっきり涙を流して、そして自分の世界に戻り、自分の嵐と向き合わなければならないのです。

これから、Goldfingerさんによる、トランス排除の件について書きたいと思います。
しかしその前に、私にとってGoldfingerはどんな場所か、ということをまず書きたいと思います。

2013年に日本に来て、初めて訪れた二丁目のレズビアンバーが、Goldfingerさんでした。クラブイベントではなく、バーの方で。
今でこそミックスバー(土曜のみ女性限定)になっていますが、当時はまだ「ウーマンオンリー」を基本とするバーでした。(なぜ「ウーマンオンリー」から「ミックス」へ方針を変更したのか、あるいはそれは経営上の理由かもしれないが、それは私には知る由もありません)

しかしそんな「ウーマンオンリー・バー」であるGoldfingerが考える「ウーマン」とは、私にはとても多様性に富むもののように思えました。
国籍が、肌の色が、操る言語が、見た目が違う「ウーマン」達がバーに集っていました。中にはFTMさんやFTXさんもいました。
記憶が間違っていなければ、MTFさんもいたはずです。というより、MTFさんがいても全然おかしくありませんでした。何しろMTFの多くは、シスジェンダーの女性と外見では全く判断がつかないのですから。

知る人ぞ知ることですが、私の小説『独り舞』や「流光」で登場する新宿二丁目のレズビアンバー「リリス」は、Goldfingerがモデルとなっています。
小説の中で、私は「リリス」についてこう書いています。

三十平米にも満たない狭い空間に二、三十人も入っていた。年齢も二十代から四十代までと幅広い。日本人が多いが、中には中国語を話す人や、英語を操る白人女性も散見される。一応ウーマンオンリーのレズビアンバーではあるが、男か女か見た目からでは判断がつかない人も沢山いた。
――『独り舞』p.16、講談社
このリリスというレズビアンバーは中では広めで、他の店ほど騒がしくなく、落ち着いてお喋りするのには持って来いの場所だ。リリス、アダムに臣服することを潔しとせず、自ら楽園を置き去りにした魔女。なんと私達に相応しいことか。
――「流光」第4章

私はGoldfingerさんを愛していました。だからか小説の中では、そこをある種の「理想郷」として描いてきました。そういう意味では、Goldfingerさんは私の表現に光をもたらした存在とも言えます。

だからこそ、新宿二丁目で恐らく初めて「シスジェンダー女性限定(=トランス女性排除)」を明言する店がGoldfingerさんという事実に、私はとても傷付きました。

もちろん、「レズビアンコミュニティ」と「(埋没できていない、あるいは埋没を望まない)トランスジェンダー女性」との矛盾や衝突は、何も今日始まったものではありません。
日本でも、台湾でも、そして恐らく世界中の多くの国においても、このような衝突は「レズビアン」という意識/アイデンティティの台頭とともに、存在しているのでしょう。
台湾で最も有名なレズビアンクラブ「Taboo」は、身分証の提示を求め、戸籍上の性別が男性の人の入場を断るか、女性より高い男性料金を徴収するといった対応をしていたという話を聞いたことがあります(今はどうなのかは知りません)。
日本でも、例えばTipsyさんとかLagoonさんとか、そういった女性限定の場では独自の基準を設けていることも知っています。

この男性中心社会、男尊女卑的な社会では、女性だけの空間がどうしても必要だと、私も思います。
女性専用車両、女子大学、女子トイレ、女湯、レズビアンのバーやクラブ……全てがそうです。
問題は、「女性とは何か」ということですね。「こちら側」と「あちら側」、その線引きがとても微妙で難しく、「トランス女性は女性です」というポリティカル・コレクトネスの一言だけではとても語り切れない側面があると、私も確かに思います。

線を引くこと、定義をすることは、同時に誰かを排除することを意味します。

それでも線引きしなければならないのだから、みんなはまさに「試行錯誤」をしながら、自分なりの「線引き」を試みてきました。その「線」が時にはこちら側に寄りすぎたり、あちら側に寄りすぎたりしますが、基本的に「点線」で、それもある程度フレキシブルなものでした。

しかしGoldfingerさんはその「点線」を「実線」に取り替えた上で、最も多くの人を「あちら側」に排除する場所に、その線を引きました。いや、線を引いただけではなく、鋭い刺を帯びる有刺鉄線を厳重に張り巡らしました。その有刺鉄線に、電流まで流して。

「こちら側に来ないで」とGoldfingerさんは言っています。「あなた方が自分のことをどう思っているか、これまでどのような痛みを抱えて生きてきて、またどのような工夫をして自分を理想的な姿に近づけてきたか、私は一切関知しない。生まれた時から、あなた方はあちら側の人間なのだから」

牧村朝子さんが、このように書きましたね。

そこに行く過程での避難船がどうしても必要になってしまう、っていう嵐なんだと思う。いまは。
船は小さい。規格も統一してない。船によって「フェム限定」とか「著しく女性に見えない方は……」とかそれぞれやり方を考えないと乗り切れない。
――「それぞれの船で向かう途中

しかし、違います。違うんですよ。
私達を傷付けるのは、傷付け得るのは、何も「外の世界の嵐」なんかじゃありません。
というと語弊があるかもしれません。もちろん「外の世界の嵐」によって私達は傷付けられます。ものすごく傷付けられます。しかし傷付いた後に、私達はその「嵐」に立ち向かうことができます。抵抗することができます。怒りを数千数万本の炎の矢に転化し、嵐の中心へ解き放つことができます。
そのような抵抗を通して、嵐を止ませることができます。

「嵐」は、本当の意味で私達を傷付けたりできません。

そうです。たとえ百田尚樹が「よーし俺も入学するぞ」と茶化しても、杉田水脈が「生産性がない人達に税金を使うべきではない」と発言しても、彼らは本当の意味で私達を傷付けることができません。

私達を本当の意味で傷付け、再起不能になるまで打ちのめすことができるのは、いつも親しい人達なのです。
親、家族、恋人。あるいは仲間だと思っていた人々。
そう、何かを求めて、何かが欲しくて、同じ虹のもとへ集ってきた人達。

牧村朝子さんは、こうも書きましたね。

その船旅のとちゅうにあるいまは、せめていまは、お願いです。いろんな船があることをどうかゆるしてほしい。乗船を断られた人に、「乗せないなら乗せないってはっきり書くべき」と言われ、提案された表現をそのまま書いた、あまりにも正直に従った船がある。はたして、いますぐその船を沈めるのが解決策だろうか、って、思うんです。わるいシス対かわいそうなトランス、って話じゃないとわたしは思うんです。同じ嵐に吹かれるいまは、いろんな船があることをどうかゆるしてほしい。船に乗れなかったと思っても、きっと宝島があることを忘れないでいてほしい。
――「それぞれの船で向かう途中

違う、そうじゃないんですよ。

確かに色々な船があるでしょう。中には泥でできた小さな船も、金でできた大きな船もあります。
泥船に乗っていた人達は、船が溶けて海に溺れようとしています。中には泳げる人もいますが、やがて体力が尽きて沈もうとしています。
そんな人達が、通りかかった金の大きな船に、助けを求めるのです。

「溺れて死んでしまうんです」泥船の人達が力いっぱい叫びます。「どうか乗せてください」

すると金の船の船長が言いました。「あなた達は泥船に乗っていた人達でしょ?その泥まみれの顔を見れば分かるんですよ。金の船に乗せることができません。自分達の船に帰ってください」

それだけではなく、船長は金の船に乗っている船員を全面的に点検しました。金の船の船員の中には、泥船出身の人達がいます。それを見つけた船長は、彼らを金の船から突き落とすことにしました。

私は金の船の船員として、自分の仲間が仲間によって突き落とされることを見過ごすことがどうしてもできません。だから声を上げました。「船長、やめてください!」と。

「はたして、いますぐその船を沈めるのが解決策だろうか、って、思うんです」と、牧村朝子さんが書きました。「お互いを撃ち合って沈めあわないようにしたい」と。

しかし、誰も船を沈めようとはしていません。誰も撃ち合おうともしていません。
私が、私達があくまで、「人を突き落とすのをやめてください」「溺れそうになった人を船に乗せてください」と、言っているだけです。「船には、まだまだ空間があるはずだから」と。

「同じ船に乗って、同じ虹のもとへ向かいましょうよ」と。
「違う成り立ちがあっても、違う痛みを抱えても、違う考えを持っていても、虹に求める『何か』が違っていても、目指しているのは同じ虹なのだから」と。

それはきっと、そんなに贅沢な願望ではないと、私は思いたい。

※註1:記事の中に出てくる「泥船」はあくまで比喩的な表現です。二丁目に実在するお店「どろぶね」とは全く関係ありません。因みに「どろぶね」はいい店なので皆さんどんどん行って消費してください。

※註2:私の小説『独り舞』「流光」は以下から読めます。
『独り舞』:https://www.amazon.co.jp/dp/4062209519
「流光」:https://note.mu/li_kotomi/n/n1611b97ece01


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