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糸を手繰るように

 2018年が終わり、2019年が来た。平成最後の年越しというのだからもっと派手な何かがあってもいいものを、年を越してみれば実にあっけないもので、年越しの瞬間に、私はエジプトのルクソールの東岸にあるホテルの一室で、静かに寝ていた。

 私は平成元年生まれである。もっとも、それを意識したのはつい数年前、日本に来てからのことである。当たり前のことだが、台湾では日本の元号を用いていない。西暦で言うと1989年、民国で言うと78年に、私は生まれた。しかし日本に住んでいると私は何故か「平成元年」というものに妙なこだわりを持ち始めた。何かの書類で生年月日を書く必要がある時に、「平成」と「西暦」が選べる時でも私はいつも「平成」を選び、年の欄に「1」と書く。一つの時代とともに生まれるようなそんな感覚を、私は密やかに楽しんでいた。あるいは「平成生まれ」という事実に妙な誇りや高揚感を持っていたのかもしれない。まるでその事実を主張し続けると、自分は昭和に代表される旧時代と一線を画すことができるかのように。

 しかしそれを楽しむのも束の間、平成の世の終わりはいつの間にか目前に来ている。2019年5月を過ぎると、「平成生まれ」というものはとうとう旧時代の産物になってしまい、次の「○○生まれ」というものがやってくる。有無を言わせぬ勢いで時は流れ、人々を押し流していく。人間にできるのはただ、糸を手繰るように一日また一日、決まった量の時間を前から後ろに流していくだけ。

 2018年の漢字は「災」だったようだが、私にとっても2018年はさほど良い年ではなかった。「待」か、「忍」の年だったと思う。2018年という年の大半を費やして私は何かを待たされていた。会社の仕事はうまくいかなかったし、気力が出なかった。永住権は申請したが審査が長引きなかなか下りなかった。恋人とは別れた。『独り舞』の単行本は予定通り出版したが思うようには売れず、新しい仕事にもつながらなかった。いくつかの小説を書いたけれど発表までは漕ぎつけなかった。そんな八方塞がりともいうべき惨めな状況に追い打ちをかけたのは、中国の国家主席任期制度の撤廃、日本の杉田水脈の駄文をはじめとする一連の差別記事の発表、多くの医科大学の入試における女性差別の実態の発覚、そして台湾の統一地方選での民進党の惨敗、同性婚とジェンダー教育を巡る国民投票の完敗だった。翻訳家の天野健太郎氏のご逝去もショックだった。終わりの見えないトンネルのように、何もかもがうまくいかないという焦燥感に私は駆られながら、耐え忍びながらひたすら走り続けた。

 転機が訪れたのは年末も近い頃、永住権が下りてからだった(そう、私には「住む」という当たり前のことすら許可が必要だった)。永住権の取得をきっかけに会社の退職を決意し、それに伴って転居もした。一種の背水の陣だった。ほぼ同じ頃に『独り舞』の中国語版の台湾での出版作業が本格的となり、日本でも次の小説の発表予定が見えてきた。軽くなった気持ちで東京大学クィア理論講座に出向いたらまた新しい刺激と出会いがあり、それまでの鬱々としていた日々に光が差したようだった。退職と転居が落ち着いてから、私は予定通りエジプトに旅立ち、カイロでクリスマスと29歳の誕生日を迎え、ルクソールで2019年を迎えたのだった。

 2019年はどんな年になるだろう。次の元号みたいにそれは誰にも分からない。2019年には元号が変わり、私も30歳になるけれど、それだけで世界が何か大きく変わることはないだろう。政治家や差別主義者はヘイトスピーチを撒き散らし続けるし、既得権益者はマイノリティを踏みつけてほくそ笑む。中国の独裁政権は続くし、台湾の政治情勢も大きな突破は望めない。世界のどこかでテロは発生し、誰かが殺される。芥川賞と直木賞と本屋大賞は予定通り発表されるが、それでも出版不況は継続する。私は別のどこかに旅行するし、預金は減り続ける。何年間、何十年間後にふと振り返った時に、元号以外に2018年と2019年の違いを思い出せる人はそうそういないだろう。それでも2019年の入り口に立っている今、この先に立ちはだかる365日に何か新しい転機、新しい始まりを期待したいというのは、それほど贅沢な望みではないはずだ。

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