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苦手だったVERYを愛読しながら思うこと

雑誌はVERYを読んでいる。
年間の定期購読もしているので、かなり優良読者だと思う。

その昔、最初に勤めた外資系の消費財メーカーで消費者調査の仕事をしていた。

自社製品を愛用してくださっている顧客のもとに出向き、実際にどんな環境でどうその製品を利用しているのかなど、普段の生活の様子を観察する、という業務があった。

その日、私は上司とともに、東京の某ベイエリアに調査に行っていた。
海沿いにそびえ立つ有名タワマンの高層階に住み、それこそVERYを愛読しているような上品な女性のご自宅だった。

嘘みたいに家が片付いていて、調度品が取り揃えられており、普段のお買い物にお付き合いしたら、途中ちょっとお茶を飲むためだけに立ち寄るカフェのクオリティまで高すぎて、面食らったのを覚えている。

(こちらとしてはあくまでも普段通りに行動してほしいと伝えているが、当日本当にそのように行動してくれていたかは知らない)

そんな当時、私はVERY読者を馬鹿にしていた。

子どものお迎えにマノロブラニクを履いていく。
そのまま公園に寄って、バーキン片手にママ友とお喋りするって、感覚どないなっとんねん、と思っていた。

どうせ夫が稼いだお金で、いい生活してるんでしょ。自分では働いてないんでしょ。人の稼いだお金でキレイを維持することに命かけてるんでしょ。って思ってた。

その頃の私はまだBAILAを読んでいた年齢で、当時のVERYが語っていた内容について事細かには知らないし、上記イメージは事実無根の完全妄想かもしれない。(そうだったらごめんなさい)

ただ、いま自分が“現在の”VERYを読むようになって感じることがある。

私たちはたぶん、好きな服やお気に入りのジュエリーがお守りみたいになっている。

妻で母で娘で部下で上司で誰かの友人でもある自分。

役割が多すぎて、それぞれの場で必死すぎて、気を抜いたらいつでも泣きそうだ。

そんないまにも崩れ落ちそうな日々のなか、ふと自分の左手首に目を落とす。
去年清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したパントゥール ドゥ カルティエが光る。

自分は大丈夫。
そう思える瞬間が、確かにある。

もしかしたら一昔前のVERY読者も、状況は違えど、同じように、なにか祈るような気持ちでバーキンを抱えていたのかもしれない。

最近、自分に投資したり、好きなものを買うことから少しだけ逃げていたところがあるのを自覚していた。
お金をかけるべきは自分じゃない、そんな気持ちになっていた。

でも、ちゃんと好きなものは買おう。
したいことをして、行きたい場所に行こう。

まずは明日、人生初めての美容クリニックにいくことにした。
やってみたいことをやるのだ。


後日談としての美容クリニックの話はこちら

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