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1966年にビートルズ日本公演を武道館で観た

僕はビートルズの日本公演を見ている。彼らが来日したのは1966年、僕が中学三年生の時だ。僕は今71歳なので恐らく僕よりも若い人でビートルズ日本公演を見たという人はほとんどいないだろう。

今まで「実は1966年のビートルズ日本公演を観に行ったことがあるんだ」と人に言って、「あ、僕もあるよ」とか「あたしもあるわ」と言った人には一度もお目にかかったことがない。きっとたくさんいるのだろうが、彼らが来日時に高校生や大学生だった人はほとんど70代後半なので、普段僕なんかがあまり知り合う機会のない人達だからだろう。

僕はビートルズがとても好きで、自分のお小遣いで買った生涯初めてのレコードがビートルズの「抱きしめたい」のシングル盤だった。以降、コレクションを始めて、現在持っているのはLP盤が183枚、EP盤とシングル盤が81枚、CDが149枚、DVDが22枚、そして今は亡きレーザーディスクが8枚である。

僕のビートルズコレクションの数々。雑誌や本もあるが数えていない。

ひと頃はバージョンの異なるレコーディングの盤を集めたこともあったが、最近はそこまですることはなくなった。しかしながら今でもビートルズは僕にとっては唯一無二の存在であることは間違いない。

懐かしいシングル盤とEP。右上の緑のケース、PARLOPHONEは英国原盤の「She Loves You」
左下の「Magical Mystery Tour」も初版の英国でのEP盤。多分もう手に入れるのは困難だろう。
日本の東芝、オデオンレーベルの赤盤が懐かしい。

当時のチケットの値段は確か2100円。一体どうやって手に入れたのかというと、ライオン歯磨きを買って応募すれば抽選で当たるというキャンペーンがあったので、それに応募して当たったのだ。多分あの時に一生分のツキを使い果たしてしまったような気がする。

チケットの半券。舞台の左側の席だったと記憶している

先日、メルカリを見ていたら当時の日本公演の未使用チケットが10万円を超える価格で売りに出されているのを見つけた。僕なんかの感覚ではせっかく当たったチケットを使わずに置いておくと言うこと自体考えられないのだが、恐らく何らかの緊急事態で行くことができなかったのだろう。

こちらは公演のプログラム

ビートルズ日本公演は全部で5回。6月30日の夜、7月1日の昼と夜、そして7月2日の昼と夜だった。世の中に日本公演のDVD(その多くは海賊版だが)がたくさん出ているが、ほとんどが6月30日と7月1日のバージョンで7月2日の私の観たステージはわずかに家庭用の8ミリフィルムでしか残っていないらしい。そういう意味では、この7月2日夜のステージを実際に観ることが出来たのは本当に幸運だった。

ちなみにビートルズ日本公演の主催は読売新聞社と名古屋の中部日本放送(CBC)だった。読売新聞は当時の社長の正力松太郎氏が、会場となった日本武道館の会長だったからのようだ。一方、読売系列ではなくTBS毎日新聞系列の名古屋のCBCが主催したのは、「海外タレントの公演を運営する経験の豊富さ」だったと言われている。

当時発売された「週刊読売」のビートルズ来日特集号。単に一組のアーティストが来日するだけで一般の週刊誌が特集号を出すというのだから、やはり彼らは社会現象だったのだろう。

当時、「ビートルズ 東京 100時間のロマン」という写真集がCBCから出たが、これは著名な写真家である浅井愼平氏のメジャーデビュー作だ。僕も持っているが随所に彼の素晴らしい才能が見て取れる。ちなみにこの初版は今ではネットで5~6万円ぐらいしているらしい。

浅井愼平氏のメジャーデビュー作。
彼らはホテルから出られなかったがそれに密着して、とても良い写真を撮っている。

僕が観に行ったコンサートの前日7月1日の夜9時から特番で日テレ系列で前夜6月30日のコンサートの模様が放映された。僕も食い入るように見つめていて、ジョン・レノンが「Nowhere Man」の歌詞の二番目を間違えたことは今でも鮮明に記憶に残っている。当時の視聴率は60%近くあったらしい。

ビートルズ日本公演は時間にして30分程度、その前に日本のアーティストが前座で出演していた。ジャッキー吉川とブルーコメッツやブルージーンズ、そして内田裕也とか尾藤イサオが出演していた。この時の前座でザ・ドリフターズが出ていたというのは良く知られている話だが、僕が観た7月2日は彼らは出ていなかった。

どうでも良い話だが、僕の席の二つ前には歌手の布施明が座っていたことを覚えている。

コンサートは始まったものの、歓声にかき消されて歌声があまりよく聞こえない。それでもそこにビートルズがいる!というだけで大興奮の30分間だった。まあ、これは一生の思い出と言っても良いだろう。

当時は会場では聞こえなかったものの、後にライブのレコードやDVDを見る限り、本当に歌は下手(笑)演奏技術もそれほどたいしたことはない。やはり彼らは何と言ってもソングメーカーとして天才だったということがよくわかった。

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