星組「ロミオとジュリエット」#1 - 愛月ひかるの「死」
観劇を趣味としているが、ひとつの公演に複数回出向くということはWキャストの公演であってもほとんどない。好きなればこそ、異なる演目を色々観たいと思うし、コロナ禍においては観劇はセレクティブにというスタンスを取っているから尚更である。
だが、当初の想定に反し複数枚のチケットを入手し、観劇している演目がある。
そのうちのひとつー
宝塚歌劇団 星組「ロミオとジュリエット」だ。
幸運にも初日の舞台を観ることが叶い。感想を書き始めたはいいが、一向にまとまる気配もないので、少しずつアップデートする方向にシフトした。
先に公演の終わるB日程に関係するところからと書き始めた(最も、緊急事態宣言発出によりその努力そのものが無に帰しそうなのだが)。
今回は、最も衝撃を持って受け止められたものから始めようと思うー
宝塚歌劇団 星組「ロミオとジュリエット」#1
~ 愛月ひかるの「死」
ある日の夕方、Twitterを開くと「愛ちゃんの死」という言葉がタイムラインを埋め尽くしていた。
それが宝塚歌劇の星組公演「ロミオとジュリエット」の愛月ひかるさんのことだと気がつくのには少し時間を要した。
今まで若手や中堅の男役が演じてーいや、踊り継いできたロミオとジュリエットの「死」。
役替わりとはいえ歌もセリフもない役を2番手スターに充てるとは、小池先生も思い切ったキャスティングをしたな。
それが愛月さんの「死」に対する第一印象だった。
生憎、私は愛月さんが星組に組替えになるまで、ライブ、すなわち劇場でその演技やダンス、歌を聴く機会に恵まれなかった。
そして、星組デビューとなった「眩耀の谷」「Ray」はともに良くも悪くもあまり印象に残るものがなかった。
芝居はトップお披露目公演となった礼真琴演じる主人公・礼真へのフィーチャー度が高く、キーマンは謎の男(麻蘭王)だった。愛月さんの役・管武は芝居構成の中であまりに中途半端な登場となっており。演技力でカバーするにも限界がある役だった。
また、レビューにおいても愛月さんの魅力を引き出すようなシーンがあったかと問われればそれも疑問符が付く公演だったと思う。
とはいえ、フィナーレの歌手からパレードに至るまでの存在感、またすっとした立ち姿は美しく。次の演目では愛月さんの芝居をきちんと観たい。そんなことを思いながら帰路についたことを覚えている。
その「次」が「死」とは…想定外だった。
愛月さんの芝居を観るならばA日程のティボルトか…
そんなことを漠と考えていた。
宝塚版の「ロミオとジュリエット」、それも礼真琴のロミオ。
礼さんがトップになることがあるならば絶対に再演があるだろうと、誰もが口にせずとも期待していた作品。
ただでさえ宝塚のチケットは取りにくく。人気公演ではあるが、宝塚では長らく再演されていない。
一度でいいから観劇するには、東京公演をどう申し込むべきかー
悩んでいた私に、一足先に本拠地宝塚の公演を観た友人から返ってきたひとことは意外なものだった。
「B日程、一択」
こうして私はあらゆる抽選や先行発売においてB日程を申し込み、東京公演初日、東京宝塚劇場に足を運ぶことになった。
宝塚の初日の観劇は実に20年ぶりー2001年、やはり星組の「ベルサイユのばら」以来のことだった。
宝塚の「ロミオとジュリエット」は宝塚オリジナルの役「愛」、そしてフランスオリジナル版にも登場する「死」のダンスから始まる。
暗闇の静謐の中、柔らかなサーモンピンクのドレスでせりあがり踊り出す「愛」。その背後に「死」は現れる。
カーテンからすっと踏み出されたその足の一歩。
重力を全く感じさせない柔らかな動きの中に感じる硬質さ。
あぁ…そういうことだったのか…
「愛ちゃんの死」の意味を瞬時に悟ることとなる。
愛月さんの「死」がこれまでの「死」とは異なるアプローチで造形されていることが登場の瞬間に見えてしまったのだ。
これまで演じられてきた宝塚版「死」は初演・真風涼帆さんのものが基本的に踏襲されてきているように思う。真風さんをはじめ、宝塚版の「死」は死神ーいや、「死」という名の人物のような印象が強い。
人間のうちにある負の感情の集合体が人の形となり動き出したもののように私は感じている。
愛月さんの「死」の動きは一見、緩慢なようにも見える。
にもかかわらず、一切の無駄がなくひどく研ぎ澄まされている。
また、研ぎ澄まされていると書いたが、その動きを表現するのに「鋭利」といった言葉は全く当てはまらない。
「ロミオとジュリエット」の冒頭、「愛」と「死」はそれぞれの役割とスタンスをデュエットダンスで表現するのだが、存在感や迫力はあるのに重さがない。重さがないと書くと軽やかさがあるのかと問われるだろうがその言葉も適当ではない。
「死」が「愛」をリフトし終えると「愛」と「死」は別れ、「死」は舞台中央に這いつくばる。不穏なドラムの音に「死」は姿勢をそのままに上半身だけ擡げると背後にヴェローナの街が現れる。
不穏なドラムの音に合わせ「死」が上半身を起こすという振付は従前から変わらない。
だが、上半身を中心に大きく動いて不穏な空気を演出してきた過去の「死」たちと比べると、愛月さんの「死」の動きは小さい。腰を起点にすっと上半身を持ち上げる動作は最小限に留め、一切のゆがみがなく、腕の力や床を押す反動を使わずに僅かに体を起こすだけなので肩から背中にかけても動きがない。
伏し目がちに正面を向けることのなかった顔がすっと持ち上げられ、初めて観客に愛月さんの「死」の顔が向けられる。
従前から変わらぬ振付であるにもかかわらず、全く異なるものが目の前で踊られているように見えた。
過去の「死」たちは、この上半身を擡げる動作ののち、首を回すかのような威嚇的動作をした者もいたし、目をカッと見開くーあたかも歌舞伎の見栄切りのようだと思っていたのだがーようにした者もいた。
しかし、そういった強調表現が愛月さんの「死」にはなかったのだ。
「死」は切れ長の目を薄く見開いているが、その眼をわずかに大きくしただけだった。
この動きが齎した効果は絶大だった。
「死」のシルバーグレーのロングヘアはあたかも意思を持ったかのように背中に吸いつき、腰に近い髪の先端が一瞬ふわっと舞い上がっただけだった。
だが、それまで客席を正視することなかった顔の動きと合わさって、「死」が放つ観客を不安にさせる漠とした空気が劇場に充満するには十分過ぎるものだった。
「死」は立ち上がり憎しみ渦巻く街、ヴェローナへと溶け込んでいく。ヴェローナの街の真の支配者はモンタギューでもなければキャピュレットでも、いわんや大公でもない。
増幅する憎しみを取り込み広がる「死」の空気こそが支配者なのだ。
極限まで抑制された「死」の動きに見えたのは、愛月さんが演じようとしているのは「概念としての死」そのものであるということだった。
女性が男性を演じる宝塚において、男役が女性を演じることの意味についてしばしば議論される。今回で言えば「愛」であるし、「ベルサイユのばら」のオスカルや「風と共に去りぬ」のスカーレット、「ミー&マイガール」のジャッキー、「ガイズ&ドールズ」のアデレイドなどだ。
そして、女性は女性らしく、男性は男性らしく演じるために一定程度の誇張表現の型が存在する宝塚において、男役が演じる「死」には男性的な魅力が必要だと誰もが思っていた。
初演で礼真琴が「愛」を演じて以来、男役が「愛」を踊り継いできた。
ロングドレス姿の「愛」-と踊るパンツスタイルに変形ジャケット姿の「死」。「愛」の相手役=「死」は当然男性であると無意識に刷り込まれてきていたのかもしれない。
宝塚で「死」を演じてきた役者たちは色香は異なれど、男役であることを最大限生かした「死」の造形を作り上げ、各々が魅力的に演じてきた。
いや、それは宝塚に限ったことではないかもしれない。
東宝版の「死」は男性のダンサーが登用されているし、そのダンスは男性の肉体をフルに活かした振付で、死は人格を与えられた男性であると誰ひとり疑っていなかった。
だが、愛月さんの死は男性でもなければ女性が演じる男役でもなかった。いわんや女性であるはずもない。
そして、中性的ですらなかった。
男役や、人間誰しもが持つ「癖」が排除された動きは「死」が人外の何かであるということだけを確実に客席に伝えてくる。
男役が「死」を演じる意味を飛び越えて、人間が「死」という漠とした概念を表現することにフォーカスされていたのだ。
ヴェローナの街でのいさかいが終わると、キャピュレット夫人とモンタギュー夫人が若者を諫める「憎しみ」の歌が始まる。
舞台中央の壁にぴたりと張り付く「死」は再び抑制された動きー右腕だけで憎しみの連鎖を己がエネルギーとして拾い上げていく。
動きが制限された表現において、殊に人外感を感じさせる愛月さんの「死」ー
それは、大きな関節を見事なまでに動かさないことで表現されている。
例えば、腕を振り上げる動作ひとつにしても肩関節を動かすことはしない。肩甲骨の奥から動かしているからか、背中も大きく動くことがない。
曲全体の中で全身を使う振りはあるのだが、その動きも特定の一方向にだけ身体を動かすものであり、細かな動きの連続によって関節の動きを感じさせることがない。
「死」の衣装は薄くやわらかなオーガンジーのような布の上にスーツほどではないがそれなりに張りのある布が重ねられているように見えるが、肩から脇にかけて皴が入ることもなく、またその衣装が愛月さんの体から浮くこともなかった。
これは私見だが、芝居において多彩な表現が可能な身体的パーツは実は少なく、そのひとつが肩だと思っている。その動きを封印したことで愛月さんが手にした表現があまりに豊かで見事だった。
両家の大人たちが若者に繰り返し植えつける憎悪ー
その感情とそこに派生した苦悩を抱きしめ「死」は消える。
場面は進み、モンタギューの若者たちが歌い踊る「世界の王」は向こう見ずな若者の勢いと危うさの上に成り立つ突き抜けた明るさに満ちている。
モンタギューの若きリーダー、マーキューシオとベンヴォーリオとともに歌い踊るロミオ。3人が中心に歌い踊るこのシーンでは、澱んだ街の空気を一瞬忘れさせられる。
「俺たちの王は俺たちなんだ!」
明るくなった街に張り上げられた声の余韻が残る中、うっすらと不穏な気配が漂うのを感じ左右に目を動かすと、舞台下手の階段上に「死」が立っていた。
モンタギューのリーダーのひとり・マーキューシオがキャピュレット家の仮面舞踏会に潜入し女の子を袖にしてやろうと恋に恋する若きロミオとベンヴォーリオを誘う。
「死」は階段手すりにかけられた舞踏会用の髑髏の仮面を取り、マーキューシオはその仮面を手中に収める。
過去の「死」たちの仮面の渡し方は「手渡す」との表現がしっくりくる。
だが、愛月さんのそれはマーキューシオが仮面に手を伸ばすことを予見した「死」が、彼が手を差し出す位置に仮面の形を借りた「運命」を「置いた」かのように見えるのだ。
その動きは薄いシルクの布を爪先ですっと撫でるかのようにさりげなく、柔らか、そして自然なものだった。
取るも取らぬもマーキューシオ次第だ。
死はマーキューシオに何も用意しないし与えもしない。マーキューシオ自らが選択したかのような表現がなされているのだ。
マーキューシオが歌う「マブの女王」のシーンは、彼自らが髑髏の仮面を手にしたところから始まる。
ストレートプレイにおいても、このシーンを観ればマーキューシオがどう造形されているかが解るといわれる彼を語るに欠かせないシーンだ。一音違えれば不協和音になりかねないこの曲を歌いながら、マーキューシオは舞台中央へとステップを踏み進んでいく。
それに合わせて「死」も舞台奥を静かに中央へ向かって歩いていく。
この歩き方もまた実に人間とは無縁だ。
腰を安定させて歩いているというのに、日舞のように腰は入っていない。
にもかかわらずスリ足で歩くわけでもない。上半身から下半身まで一本筋が通ったようでいて、股関節の動きを感じさせない。
足の上下動があるにもかかわらず、肩と腰の位置が全くぶれないし、左右も常に平行。時に肩を動かす動作が出て来ると、そこでは頭の位置を固定しているためブレがない。
たったこれだけの動きで、「死」=「そこに存在する何か」であることを示している。
全身で歩くと書けば簡単なことのように聴こえるかもしれない。
だが、全身で「格好良く」歩くことは簡単だが、全身で「空気のように」歩くことは難しい。そして、バレリーナのようにピンと背筋を伸ばしているわけでもない。頭から背中にかけての曲線は自然で美しい。
関節の柔らかさがなせる業なのか、それとも体幹の確かさなのか…いまだその正体を見破ることができずにいる。
愛月さんの演じる「死」に圧倒的な存在感はない。
街を支配する気配であることを優先しているからだろうか、はっと気が付くとすぐ隣に在るものという表現が成されている。
なお、ヴェローナに生きる人々がいきいきと演じているからこそ、この表現が成功させているということも申し添えておきたい。若さに端を発する炸裂するパワーが「死」に空間をコントロールさせる力を強めさせている。
照明のあたる舞台にあって、ひとり異質な衣装とメイクで立つ「死」が存在感を消すというというのは並大抵のことではない。スターにスポットライトを当て続ける宝塚の文化も、芝居の空気感醸成という観点ではいくら場面に合わせて光量を落としていても、邪魔になってしまう。
「死」が登場すると、輪郭はぼかしているものの、くぐもったグレーのスポットライトが「死」を追いかける。だが、スポットが当たっているにもかかわらず愛月さんの存在に気が付かないことがあるのだ。
愛月さんの「死」は抑制のきいた動きによって「不穏な空気のそのもの」であり続けることに終始している。空気であり続けている間は、観客に正面を向いて対峙することをしない。
そしてその空気が増幅されたり、人々の負の感情や怯えといったものを感じるや否や、圧巻の存在感を押し出す。そんな「死」なのだ。
「お前たちが馬鹿なことをしないように"付き添うよ"」
仮面舞踏会に行くことを決め、散り散りに仲間たちが帰るのを見送ったロミオから笑顔が消えた瞬間、「死」は客席正面にその顔を向け、それまで制御してきた動きを開放させることを宣言する。
手を一閃させるという動作によって。
「ロミオとジュリエット」のコアとなる1曲「僕は怖い」だ。
仲間たちの危うさ、それを止めきれない己の不甲斐なさー
漠とした、でもそう遠くない未来に訪れるであろう破滅を思うロミオの心の澱を「死」は集め、増幅させていく。
礼真琴さんのロミオの情感溢るる豊かな歌声。そして、身体の動きだけでロミオの怯えを大きく見せる愛月さんの「死」。
暗幕の前、ロミオの歌と死のダンス、シンプルな照明だけで表現されるこのシーンは、出演者泣かせのシーンだと思う。大きな舞台空間にロミオの怯えをこの3要素だけで再現しなくてはならないのだ。
ロミオがひとりで歌唱すると舞台の限られたエリアで歌うことになってしまうが、死がロミオの心を揺り動かすことで空間を大きく使い怯えを広げることができるようになる。
愛月さん演じる「死」の絶妙なバランスを感じたのはこのシーンだった。
ロミオが「僕は怖い」を歌い出す直前、手を翻し怯えの空気を会場全体に広げる。だが、死が観客の背筋を撫であげ、ぞくっとさせる感覚を与えるのはその瞬間だけだ。
会場に広がった空気を察知すると、「死」は一歩引きロミオによりそう影のようになる。あくまでも主役であるロミオの心の内を伝播させることに終始するために、自らの存在感を薄めさせてみるのだ。「死」がロミオの影となることでロミオの怯えが際立つのだ。
過去の「死」たちはロミオをコントロールしているように見えていた。抗いようのない運命にロミオを引き込むかのように。
だが、愛月さんの「死」はロミオの怯えを引き出し、若きロミオの不安定な心の内をより大きく見せる存在であった。
歌の途中、跪いたロミオが下から夕陽色のライトで照らされるシーンがある。このシーンにおいて「死」にはグレーのスポットが当たっている。
このわずかな間、ロミオより「死」の表情がはっきりと見える。ロミオに向けられた双眸に感情はなく、また意思も存在しないが、そこに視線を向けられたロミオの怯えを見遣ることができる。
曲が進むぬつれ次第に大きくなる「死」の動きがロミオの心の影として見えてくる。
舞台には「ロミオ」と「死」のふたり。だが、そこにはロミオひとりしかいないような感覚を与えるのだ。
こうして、オープニングで「愛」と踊ってから大きく動くことのなかった「死」はロミオの心のひだを表現して去っていった。
なお、「死」として歩く愛月さんのぶれのない動きについて前述したが、このシーンは丹田を中心とした動きをしていたように見えた。
ロミオの背後で踊る「死」の体の中心部がしっかり固定されていることで、よりロミオの影であるかのように感じたのではないかと思っている。
仮面舞踏会でロミオとジュリエットが出会い、愛を確かめ合うシーンを経て、ふたりはロレンス神父のもと、ジュリエットの乳母だけを参列者とし、結婚式を挙げる。
祭壇の前で愛を誓うふたりの元に「愛」と「死」が現れる。
ふたりを守るよう、怯えに打ち勝とうとするかのようにと胸を張る「愛」。「死」はさらに大きく手を広げ「愛」を牽制する。
死がはっきりとした力強い動きを持って対峙するのは「愛」と向き合うときだけであるという点が振付として面白く。また、この事実に気が付いたのは今回が初めてのことだった。
ふたりの結婚以降、「死」はその動きを変えていく。
ロミオとジュリエットの結婚により、モンタギューとキャピュレット、其々の家の急激に膨らむ憎悪を「死」は吸収していく。
「ロミオは、ジュリエットは、狂った」
モンタギューが憎悪を吐き出すシーンではキャピュレットのサイドに立ち、キャピュレットが吐き出すときにはモンタギューのサイドに立ち激しく踊る。憎しみのエネルギーを吸収しきった「死」は静かに舞台から去る。
突然だが、宝塚のダンスはステージダンスの中でも特殊なダンスだと思う。誰もが思い浮かべるブロードウェイミュージカルのようなダンスとは異なるからだ。
ベースはジャズダンスだがあらゆるジャンルが盛り込まれ、更に男性らしさ・女性らしさを追求した型が組み込まれている。どこから見ても美しくあることが求められることの多い宝塚のダンスにはクラシックバレエやソシアルの決められた形が象徴的に登場することも多いとも感じている。
そして、当然そこにはモダンダンスも含まれている。
これまで、宝塚の「ロミオとジュリエット」の愛と死に求められるダンスは敢えてジャンル分けするならば正調モダンだと私は思っていた。
だが、モンタギュー・キャピュレット両家を挑発、扇動するかのような愛月さんの「死」を目にして。ひとつひとつの型はモダンのようだが、全体を通してみるとコンテンポラリーダンスを観ているような感覚に陥ったのだ。
その答えは、物語最終盤の霊廟のシーンにあったので、ここでは割愛する。
ジュリエットを一途に思うティボルトがモンタギューが屯する広場へとやってくる。
「ロミオはどこだ」
怒りに震えるティボルトを小ばかにしてからかうかのように犬の鳴きまねをするマーキューシオ。
今までの不穏さとは明らかに異なる空気の中、舞台奥の階段上に静かに「死」はやってくる。
過去の「死」たちの登場は、ティボルトとマーキューシオの死の瞬間を引き連れてくるかのようであった。
すなわち、「死」たちは一定程度のインパクトを伴い登場していた。
私がこれまで「死」たちについて、死神や「死」という名の人物といったように捉えていたのはこのシーンに因るものが大きいかもしれない。
「さぁ、ふたりとも。こちらの方だ。破滅への道を突き進むがよいー」
笑みを浮かべるながら囁く「死」の声が聞こえてくるかのようー「死」は死出の道の案内人のようだった。
だが、愛月さんの「死」はどこまでも密やかだった。
「死」の登場に私が気が付いたのは全くの偶然だった。
初日の私の席が2階下手寄りの前方席であったこと。オペラグラスを使わずに舞台を観ていたこと。
そして「死」が登場した場所が私の目線の高さであったからである。
そのような偶然が重ならなければ気が付かぬほど、愛月さんの「死」の登場は密やかなものでだった。
そして、「死」は怒号飛び交う両家の諍いをみることなく、視線を虚空に滑らせるだけだった。たまに視線をそちらに向けるが興味があるといったていでもない。
不穏な空気が満ち満ちたヴェローナの街で「死」が果たす役割はひとつしか残っていない。その時のために待機する。ただそれだけなのだ。
これまでの「死」に対する心象は、若者たちを破滅の運命に突き進ませるため、手薬煉をひいて扇動しているー「エリザベート」のトートに対するそれに近いものであった。
力強くダイナミックに動くことが多かった所為かもしれない。また、どこか狂気じみた笑みや威嚇するような表情を常にたたえており、表情が豊かだったこともそう感じさせた一因かもしれない。
だが、愛月さんの「死」は階段の欄干を指先でなぞり、憎しみの高まる様を横目に階段の踊り場までやってくるとやおらゆったりと腰を掛け趨勢を見ているだけなのだ。
いや、見ているというよりは聞いているとするのが正しいかもしれない。憎しみの波紋が伝播していく、その音の波紋を拾っているかのように見えた。
マーキューシオとティボルトの命尽きる瞬間、「死」は美しい指の動きでふたりの魂をそれぞれの肉体から引き出し、飲んだ。柔らかいものを優しく吸い込み、身体に取り込んでいくかのようだった。
それは酷く美しい動作だった。
だが、そこには怪しさや色香といった「死」の化身を感じさせるような仕草はない。
ヴェローナの街がまたひとつ、新たな哀しみと憎しみを取り込んだー
それだけのことだったのだ。
友を死なせ、ティボルトを刺し殺してしまった若いロミオを「死」は面白がるでもなく見つめている。
ロミオにはヴェローナの街から永久追放という沙汰が下される。
沙汰を下す前、ヴェローナ大公はロミオに対し「死刑も免れない」と言い放つがロミオはそのことに動揺する様子はない。
だが、永久追放という言葉に彼の瞳は揺らぐ。ジュリエットに触れることはおろか、声を聴くことも姿を観ることもできなくなる。
礼ロミオの涙に揺らぐ瞳を見てしまった直後、舞台奥中央の壁に佇む「死」を見やったがその表情を見遣ることはできなかった。また、その後の観劇においてどの席からも影になってしまったのは返す返すも残念である。
仲間を失い、期せずして愛する人の従兄の命を奪ったロミオは抜け殻のようにうなだれた。
一幕で仲間とじゃれ合ったあと、礼ロミオは喪失の恐怖を歌ったが、自身が喪失の一端を担ってしまった現実に対峙する中で歌った「僕は怖い(リプライズ)」は歌と芝居の境界を取り払った名シーンになったと思う。
「死」はロミオの中に死なせてしまった友マーキューシオと、命を奪ったティボルトを出現させる。ふたりはロミオの内に出現すると、自らの苦しみを伝えるかのようにロミオの精神を蝕んでいく。
そして、愛月さんの「死」はこのシーンで初めて影ではなく意思を持った何かとしてロミオの背後に現れる。それは、ロミオの中にある怯えが形となったようにも見えるし、ロミオ自らが引き寄せた死の影のようにも見える。
ひとつだけ確かなことがある。
「死」はロミオに死へと繋がる運命をここに用意したのだ。
ロミオの心のうちに出現したふたりの幻影。それは、マーキューシオに用意された髑髏の仮面と同じものだった。
「死」は髪を翻し、死したふたりの魂を連れ、暗闇へと消えていった。
ロミオはロレンス神父とジュリエットの乳母の導きで、ジュリエットとの初夜を迎えるも、夜明けとともにヴェローナの街を去った。
ジュリエットは両親からパリス伯爵との結婚を命じられ、ロレンス神父へと助けを求める。ロレンス神父はジュリエットに仮死状態となるベラドンナの毒薬を手渡す。目覚めたらロミオと新たな人生を始められるよう、ロミオにはジュリエットを迎えに来るよう手紙を出すと伝えて。
ジュリエットは服毒し仮死状態となるが、そんなこととは知らないロミオの友・ベンヴォーリオはロミオにジュリエットの死を伝える。
自らの死よりもジュリエットとの別れに絶望したロミオの慟哭がいかほどのものかは想像に難くない。
ロミオは薬屋に並ぶ人を押しのけ、薬屋の主人に懇願する。
「金ならば厭わない」
「どんなに強い男の命をも一息に止める毒薬を」
薬売りはロミオに薬を手渡すと、街にやってきたロレンス神父の使いの者の前にすっと歩み出る。お前が探すロミオはあちらだとそっと指差し、使者をロミオから遠ざけた。
背中の曲がった薬売りは頭からかぶっていたマントを取ると美しいシルバーの長髪が現れる。「死」だ。
ジュリエットの死を受け入れられず一刻も早く彼女の元へと行きたいロミオと、そんなロミオを急き立てるように仮死状態のジュリエットの前に引きずり出そうとする「死」。
「死」はロミオを走らせる。
ロミオに一度与えた毒薬を奪い、自らをロミオに追いかけさせる。
そして霊廟を前に毒薬を手放すと、ぎりぎりの精神状態で立っているロミオの鎧をはぎ取るかのように、ロミオのコートを脱がせる。
肩から優しくコートを外すと少しだけ勢いをつけ、コートを腕から引き抜き。「死」の手にわたったロミオのコートは低い位置でふわりと翻され、舞台袖へと消えていく。
霊廟まで追い立てる「死」にはロミオを急かす意思を感じる。ロミオを感情のままに走らせ、彼の思考を停止させる。
だが、ジュリエットの元へ向かうロミオのコートを剥ぐ「死」からはこれまでの「死」たちから感じていた激しさや悲劇へ突き落すようなものを感じることはなかった。
ロミオを「送り出す」ー
愛月さんの「死」はそのように見えた。
毒薬を手渡し、ロミオを霊廟へと導いたのは「死」だ。
ロミオ自身が感じた絶望を増幅させたのも「死」だった。
だが、最期の選択はロミオ自身の手にゆだねたかのようだった。
こうして「死」は物語の冒頭同様、霊廟に満ちる不穏な空気の一部へと戻っていった。
これから霊廟で起きるであろう悲劇を見届けるためにー
そして、ロミオとジュリエットは命を絶った。
「死」は死を選択したふたりの命をそれぞれに取り込んだ。
ロミオが毒薬のふたを開けるー
ジュリエットがロミオの短刀を手にするー
ふたりが生に戻ることが決してないところまで辿り着いて初めて。
愛月さんの「死」は肉体から魂を「引き出す」動作へと入る。魂を引き受けるのに「死」は力を籠めることはなかった。
ゆったりとした美しいその動作からはロミオとジュリエットがこの世に未練ひとつなく互いが待つ死後の世界へと旅立っていったことが感じられた。
愛月さんの「死」は、最後まで人を死に追い込む存在でも、その生にとどめを刺す存在でもなかったのだ。
ジュリエットの眠る霊廟で何かが起きているー
そのことを察知したヴェローナの人々が霊廟へと集まってくる。
ふたりの躯を前に霊廟には哀しみが満ちる。
ティボルトとマーキューシオが亡くなったときは憎しみが満たされた街・ヴェローナ。だが、ロミオとジュリエットが亡くなった街を最初に支配したのは人々の哀しみ、そして嘆きだった。
霊廟にとどまっていた「死」は人々の嘆く声の波紋を受取り、己が内に蓄積していく。
ふたりの魂を受け取った「死」は集まる人々の気配に霊廟の隅ー舞台上手花道へと移動しその壁にそっと背を寄せる。僅かに顎をあげ虚空に視線を泳がせながら首の前面を伸ばすと、「死」は肩の力を地面にすっと抜けさせるような佇まいを一瞬見せる。
舞台が始まって2時間余り、死がダンスなどの振付以外でその頤をあげることはなかったと思う。一瞬のその動きは、ロミオとジュリエット亡骸から「死」へ視線を誘導させるのに効果的なものだった。
ふたりの魂を受け取った指先で己が唇を触り続けていた「死」は、広がり続ける哀しみと溢れ続ける人々の嗚咽に、遂にその表情を大きく歪めた。
物語が始まってから感情を浮かべることのなかった「死」。
「死」は唇を触っていた右手で口元を、次に顔を抑えると内から沸き上がる笑いをかみ殺し始めた。
あぁ、愛月さんの抑制された「死」の表現は、すべてこのラストシーンに通じていたのかー
この瞬間、私は舞台中央に目を戻すことができなくなった。
「死」は確信していたに違いない。
哀しみの連鎖の先にあるのは憎しみであり、ヴェローナ街に澱んだ空気が満ちることを。その空気とは「死」そのものだ。
その様を笑わずにいることなどー「死」にはできなかったのだ。
だが、次の瞬間「死」の口元から笑みが失われる。
敵対し続けてきた両家が大人たちの憎しみの犠牲となった若いふたりを前に手を取り合い始めたのだ。ふたりに捧げられるヴェローナの人々の歌の響きはレクイエムではなく、讃美歌のように私には聴こえた。
「死」に走る動揺。「死」はヴェローナの人々の歌声によって自らの滅びを感じていたのかもしれない。
「死」は苦悶の表情を浮かべ、決して曲げることのなかった背中を丸めた。しなやかでどの瞬間においても美しかった姿が失われた。
苦しみに耐える「死」が何かの気配にその躯体をピクリと動かした。
次の瞬間、「死」は嘗ての姿を取り戻し、舞台下手花道から中央へと歩き出した。
「死」の視線の先にいたのは「愛」だ。
「愛」は肩を大きく開き、胸を大きく天に向け、「死」に向かってまっすぐに歩いてくる。ロミオとジュリエットの結婚式で怯えを追い払うかのように死に対峙した「愛」。
だが、霊廟で苦しむ「死」の前に立つ「愛」にはたおやかさに一本の芯が通ったものがあった。
「愛」の姿に現れていたものーそれは、強さと自信。
そして、その立つ姿に唐突に「重力」を感じた。
地に足をつけて地に足をつけて歩く様、そして胸を開き堂々と歩く様にふとよぎった言葉が「重力」であった。
愛月「死」の踊りにはどこかコンテンポラリーダンス的なものを感じると前述したが、その正体は重力を完全掌握した動きだったのだと、この時初めて気が付いたのだ。
髪の毛までコントロールしたかのような頭の動き、右後ろだけが長くなったジャケットの裾は常にふわりと美しい線を描き、身体は力が抜けているのに優美な姿勢であり続けた。
技術にしっかりと裏打ちされた表現の美しさに瞠目するよりほかなかった。
すべての謎が解けた時、「死」の姿はロミオとジュリエットの棺の後ろにあった。「愛」が見守る中、この世で結ばれなかったロミオとジュリエットが手を取り、幸福の中踊る。
「死」は再びその美しい足取りで棺の前に歩を進め、「愛」との最後の対話をする。
ロミオとジュリエットに視線を向けるでもなく、「死」は目の前の「愛」と対峙し、Aimerの流れる中、「愛」とともに棺の上で目を閉じた。
愛月さんのあらゆるものがそぎ落とされた「死」は静謐そのものだった。
ダンスが上手い人は多く存在する。芝居が上手い人も同様に。
だが、愛月さんは「死」を概念のレベルにまで落とし込み、それをダンスという表現手段を用い演技に昇華させてみせた。
私が観たものは「ロミオとジュリエット」というミュージカルの中で「死」として踊る愛月ひかるであったが、それと同時に「死」による長い無言劇を観ていたかのような感覚にも陥った。
番手制度のある宝塚において、この配役がイレギュラーであったことは間違いないだろう。
だが、愛月さんの「死」はこれまでに演じられてきたどの「死」とも異なる、今の愛月ひかるにしかできない「死」であったと思う。
この「死」の新たな表現は20年前フランスで生まれた「ロミオとジュリエット」の新たな可能性を示したものでさえあると思っている。
番手制度によって生まれる面白さがある一方、それが足かせとなって作品や表現の幅が制限されることも相応にある宝塚の舞台に一石を投じるものになったかもしれないと思うと、そのことにも今更ながら震えを感じる。
才有る人の能力を最大限活かした舞台を観ることができたときに感じる武者震いのような感覚ー幸運だった。愛月さんの「死」を実現させた劇団の英断に拍手を送りたい。
そして、礼真琴のロミオが放つ多彩な歌声と空間を揺らがせるように愛月ひかるの死が踊った瞬間、泡立った肌の感覚を私は忘れることはない。
緊急事態宣言発出が目前に迫る東京で、今後の公演がどのようになるかはわからない。だが。
ティボルトの愛月ひかるがロミオの礼真琴とどのように対峙するのかー
今はその瞬間を目撃できる日を楽しみにしている。
久々に己が内に様々な感情を湧き起こさせてくれたこの作品と演者たちー
他のキャラクターの感想は、また後日に。
なお、礼さんと愛月さん、舞空さんを筆頭とした素晴らしいダンスが見られたフィナーレについては別途書ければと思っている(最も細かい振付を音もなしにどう説明するかという点につき、考えあぐねているのだが)。
もともと、ミュージカルや芝居が好きなため、一本物の作品、そして劇中曲を使用したフィナーレは特に大好きなのだ。
曲のアレンジから振付まであまりに斬新、そして見事な構成で、振り起こしをしてみては反芻し、零れ落ちる笑みを抑えることができずにいる。
宝塚歌劇 星組公演「ロミオとジュリエット」感想アーカイブ
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