星組「ロミオとジュリエット」#2 - 瀬央ゆりあの「ティボルト」
宝塚を観劇する楽しみに「ひとりの役者の成長過程を楽しむ」というものがあると思う。もちろん舞台を観ていると気になる役者は出てくる。
だが一方、観劇の間は物語の世界に没頭しており、特定の誰かを追いかけるという器用さが私にはない。
私の観劇スタイルがこのようなものだから、必ずある瞬間が訪れる。
「いま目の前にいるこの人はいったい誰だ」
それがこの1年ほどの「瀬央ゆりあ」である。
宝塚歌劇団 星組「ロミオとジュリエット」#2
~ 瀬央ゆりあの「ティボルト」
~そして、ティボルトの鏡・天華えまの「マーキューシオ」
宝塚版「ロミオとジュリエット」の再演の報に、ダブルキャストがあるならば、ティボルトのセカンドは瀬央ゆりあーそう漠然と思っていた。
故に、キャスト発表にさしたる驚きはなかったものの(何と言っても、愛月さんが「死」にキャスティングされたことがあまりに衝撃的でそれ以外のことに思考が回らなかったといった方が正確だ)、思慮深い役や優しい所謂いい人の役にキャスティングされることの多い瀬央さんがティボルトをどう調理するのか、全くイメージがわかないまま東京公演の初日を迎えた。
柔らかくドラマチックなメロディラインにのせ、悲劇の中にある愛の物語を踊る「愛」と「死」。
「死」が地面に這いつくばると、暗幕の奥にヴェローナの街が現れる。
青に象徴されるモンタギュー、赤のキャピュレット。
くすんだ街のなか、決して交わることのない両家が舞台上で対峙する。
瀬央ゆりあ演じるキャピュレットのリーダー・ティボルトは舞台下手の階段上に登場する。両家の諍いを上から眺めている。俯瞰というほど他人事でもないが、どこか自分とは無縁なことのような風情だ。ふっと息を吐き出すと階段を降り始めた。
瀬央ティボルトの第一印象は「重い」だった。
身体が鈍いというわけではない。動作がゆったりとしているのだ。
街の様子を眺める姿やだらりと下げられた腕をゆらり揺らす様も何処か気だるそうだし、階段を下りるその様も一段一段ドンドンと踏みしめる音が聞こえてきそうな歩き方だ。
瀬央ティボルトは階段を降りると仲間が待つ広場に足を踏み入れる。
ティボルトは周囲の目にさらされるとその動きを変える。
キャピュレットのリーダーとして立ち居振る舞わねばならないとの無意識の意識がティボルトの動作に影響を与える。
周囲の目に晒されると、ティボルトはその足をきちんとあげて歩き出す。両手を少々大げさに広げる動作は威嚇動作のようにも見える。
誰かがいるときは、自分を大きく見せようと格好をつけた歩き方もするが、そうでないときは足を引きずるかのような、だるさや面倒くささを感じさせる歩き方をするのだ。
そして、そのティボルトと対となる「相手」、モンタギューのベンヴォーリオとマーキューシオ。
ふたりは舞台上手からじゃれ合いながら飛び出してくるが、ティボルトの姿を認めるとその顔から笑顔が消える。
3人は視線を交えるとヴェローナの不穏な空気の元、1列に並び踊り始める。モンタギューとキャピュレットを代表する3人が舞台上に出揃い、1シーンを踊り終えるまで2分にも満たない時間。
舞台に登場し歩き踊るだけ。ひとことのセリフもないこの僅かな間に3人が表現したものが実に見事だった。
ベンヴォーリオの基本姿勢は両足のスタンスを中庸に、腰の位置は落とすことなく上体のカーブも自然体を描いている。
後々見えてくるベンヴォーリオの中立性や柔軟性を表現するのに、「普通である」ことは重要なファクターとなるのだが、将に気負うことなく立っている年相応の普通の青年がそこにいた。
マーキューシオは上体を少し前のめりに倒し、首も前方につきだすようにしている。腰は少し引いているため落とし気味に見え、膝を緩く曲げた状態を維持している。それに合わせ肩は柔らかく前傾しているが、頭の位置は安定させつつ、左右のどちらかの肩は常に落とすようにしている。
悪ぶったように振る舞う、そしてどこか歪みを感じる青年の姿だ。
ティボルトは腰の位置が高くーそして骨盤を少し前に突き出すように意識した動きを見せる。威嚇動作と前述したが、要所要所で胸が開く動作を入れ込むと、腕を左右に広げるだけでなく、肩もしっかりと広げてみせる。
一族の後継者として振る舞わねばならないとの自覚と、虚しさと戦う青年の姿に見える。
この三者三様の立ち方は物語における3人の立ち位置を実にうまく表現していたと思う。
3人の登場人物は3人の役者それぞれが造形したものに違いないだろうが、それぞれが生み出した役から発せられる熱量のベクトルが見事に分散されたことで、B日程が表現したい物語の輪郭がくっきりと浮かび上がったのだ。
幕開き早々、愛月ひかるの死の造形により、私は今までに観たことのない「ロミオとジュリエット」がこれから始まることを確信した。
一方、「概念としての死」を表現するこれまでとは異質な死を表現する愛月さんの死を前に、ロミオとジュリエットを筆頭にヴェローナの街に生きる人々は生き生きとした姿を見せられるのだろうかーそんな不安が過った。
そこに現れたベンヴォーリオの綺城ひか理とマーキューシオの天華えま。
そして、ティボルトの瀬央ゆりあ。
舞台に登場し、ひとことのセリフもなくすれ違い、そして踊るだけ。
だが、3人は登場の一瞬でそれぞれのキャラクターと両家の対立構造を表現してみせた。
立ち姿と歩く姿で役のバックグラウンドを表現できるというのは役者に求められる大きな素養のひとつであるが、あまりにその様が鮮やかだった。
このモンタギューとキャピュレットは間違いなく面白くなる…
前のめりになりそうになるのをぐっと堪える自分の頬が熱くなっていた。
これから繰り広げられるのは悲劇だ。
だが、「とんでもないものが観られる」ということを確信してしまった私は、顔面に狂気じみた笑みを浮かべることを禁じえなかった。
ヴェローナ大公の登場でにらみ合う両家は一瞬距離を置く。
「ロミオとジュリエット」ソロの歌唱はヴェローナ大公の第一声から始まるが、遥斗勇帆のそれはあまりに見事だった。初日、私は2階席にいたが、声が真っすぐ劇場最奥まで飛ぶ様に圧倒された。
低音の良さはもちろん、不穏な空気に満ちたヴェローナにおいて権力を持つ大公の威厳が歌唱ひとつで伝わる。
小池修一郎演出の舞台で思わずガッツポーズをしたくなるのはこのような瞬間であったりする。もちろん、ファンの間では遥斗さんの歌唱力は既知の事実なのだろうけれども。歌が主体となる特に海外ミュージカルで世界観を客席に印象付ける迫力ある歌唱を聴けるというのは嬉しい。
そんな大公に紹介される3人。
「俺たちは戦いをやめはしない」
モンタギューのふたりの歌唱は前述の立ち方から受けたキャラクターをしっかりと反映させたもので、歌詞がすとんと腑落ちしていく。
「俺の強い味方 それはこのナイフ」
ヴェローナ大公に紹介されたティボルトは左右の手でそれぞれの肩を軽くと叩くと、そこから大公に向かって優雅にお辞儀をしてみせる。
ここで面白いと感じたのは瀬央ティボルトがふと見せる、悲しいほどに身についてしまった後継ぎとしての自覚であった。
大公は対立する両家の間に立ち、自らの甥であるマーキューシオを諫める。そんな叔父に対し、マーキューシオは道化のように、そして大公をからかうかのように優雅にお辞儀をしてみせる。マーキューシオ自身も相応の出自であり、幼い頃の教育から身に沁みついたものが垣間見えるシーンだ。
「お前もだ、ティボルト」
諫められたマーキューシオを嗤うティボルトのことも大公は同様に諫める。ティボルトも一瞬体をこわばらせるも、大公に対し皮肉を込めたお辞儀を返す。
ティボルトのお辞儀は一連の動作の中において「大人の振る舞いの一環」であるのに対し、マーキューシオのそれはある種の侮蔑を込めたパフォーマンスとしてのお辞儀であった。
できることをはぐらかし、あえてやらないマーキューシオ。
そして、年長者や目上の者を目の前にすると己の意思とは無関係に自然とキャピュレットの後継者としての所作が出てしまうティボルト。
このふたりの対比はこの舞台を通して続くことになる。
モンタギューとキャピュレットという対立軸の他に、ティボルトとマーキューシオの対比軸が存在することが示されたことで観客の心の中にヴェローナの街とその登場人物の位置関係が立体的に浮かび上がり、すんなりとその世界に入っていけるようになった。
ティボルトは一族の長、キャピュレット卿が登場するとその肩を少し落とし、自分の重荷を少しばかりおろすかのような動作を見せる。キャピュレットを代表し前に出なくてはならない時だけ自分を大きく見せようとする心の葛藤のようなものが見えてくる。
大公が両家を諫め去ったヴェローナの広場で、両家が睨み合うなか、ティボルトはベンヴォーリオに対し唾を吐きかける。
大人も含め頭に血が上った両家は一斉に拳を振り上げた。
一触即発の状況を作り上げたのはティボルト自身であるにもかかわらず。
ティボルトは剣を抜こうとしたキャピュレット卿を制するかのようにその腕をとっさに卿の前に差し出す。だが、その腕は遠慮がちな躊躇いがあるため、中途半端な位置に差し出される。はっきりとした静止ではない。
モンタギューという「敵」を前に何かせずにはいられなかったティボルト。だがその一方で、自らの行為が齎した状況に内心ドキドキしている様子は親に禁じられた行為に手を染めた子供そのものだ。
そして、ティボルトに挑発されたベンヴォーリオは頬についた唾という物理的な気持ち悪さを顔に浮かべこそするが、挑発には一切乗らない。
唾を吐きかけられた本人に代わり激高したのはマーキューシオだ。その彼をしっかりと制したことで、ティボルトの幼さが一層引き立った。
顔を合わせると一触即発の事態に陥るティボルトとマーキューシオ。
瀬央ゆりあと天華えまが演じるこのふたりは実は似たもの同士だ。
いやになるほど理解できる鏡の中の自分。それも直視したくはない自分の内面を見せてくる相手。同族嫌悪にも似た感情を持つ相手に違いない。
ただ、2人には決定的な違いがある。マーキューシオにあってティボルトにないもの。それは「後継者」という立場だけではない。
「理解者」、そして「友」だ。
両家の諍いで、頭に血が上った夫・キャピュレット卿に突き飛ばされたキャピュレット夫人を立ち上がらせようとするティボルトはジェントルマンシップから手を差し伸べるが、彼にすがるように手を重ねる夫人に対し、ある種の感情を隠そうとしない。
過去のティボルトたちの手の振り払い方や彼の身体を這わせる手を捕らえる動作は「煩わしさ」を感じさせるものだったが、瀬央ティボルトのそれは夫人に対する嫌悪感ー「気持ちの悪さ」を強く意識させるものだった。
キャピュレット夫人は心の寂しさを埋める存在としてティボルトを利用している。そのことを理解すれど甘受することはできないー
大人然としているティボルトが夫人に背を向けたとき。その背中には隠しようのない「孤独」が見えた。
その「孤独」をより濃く見せたのはやはりマーキューシオの存在だった。
モンタギュー夫人はキャピュレット夫人と同様にベンヴォーリオとマーキューシオに憎しみを抱くことの愚かさを説くが、説教をされている間もマーキューシオは手に持つ短剣で遊ぶことをやめようとはしない。
ベンヴォーリオは夫人の顔を伺いながら、マーキューシオの遊ぶ手を止めさせようとしているが、それは決して説教を聞かせるためではなく、説教を短く終わらせるための行動でしかない。夫人が自分たちから視線を逸らすと、彼もまたマーキューシオと一緒に戯れている。
ベンヴォーリオとマーキューシオは実にいいコンビだと思う。
感情に素直なマーキューシオを上手に制することのできるのはベンヴォーリオしかいない。マーキューシオが感情のままに動いていることで、努めて大人であろうとするベンヴォーリオは精神的に救われもしている。
ふたりともまだまだ幼く、大人にはなりきれていない。
だが、この相互補完関係があるがゆえにベンヴォーリオとマーキューシオは生かされている。特にマーキューシオはベンヴォーリオがいなくては心のままに突き進み、破滅していただろう。
「Ciao!」
剣で遊ぶことに飽きたマーキューシオは動くことをやめたが、そうそうじっとしていられるわけもない。軽く投げキスをするとベンヴォーリオを置いてきぼりに夫人の前から去っていく。
溜息を吐き出したベンヴォーリオはその後ひとりで夫人の説教を受けることになる。振る舞いだけは大人のように、だが、その表情はやれやれというものだった。
厄介ごとからマーキューシオが逃げ出せるのはベンヴォーリオという友人あってこそだ。
そんなマーキューシオと鏡のような関係にあるティボルトはー逃げ出すことが許されない。
憎しみにより「嘆くのは女」ー
そう言いながらティボルトの背中から手を回すキャピュレット夫人。
夫人のボディタッチからは辛うじて逃れることができても、その説教から逃れることができない。キャピュレットの後継者であるという自覚だけが、彼をその場に留めさせている。マーキューシオのようには逃げられない。
ティボルトの口から絞り出されるように出たのはたったひとこと「無理だよ」だった。
ティボルトは夫人に背を向け、そしてベンヴォーリオは面倒くさいといった風情で夫人の背中を見つめながら説教を受け続ける。
ベンヴォーリオもまた、マーキューシオ同様逃げることができる立場にいる。そのことがよりティボルトの孤独を深くみせるのだ。
ミュージカル版「ロミオとジュリエット」において、ティボルトは準主役格に位置付けられている。
だが、元々ティボルトとモンタギューのふたりは物語の中でワンセットであり、どちらかが突出した扱いにはなっていない。
ミュージカル版において追加されたティボルトのキャラクター設定、すなわち叔母であるキャピュレット夫人との不倫関係、そしてジュリエットへの恋心という要素は物語を魅力的にするためであると理解はしていた。潤色とはそういうものだし、そのものを否定する気は全くない。
だが、一方で、シェイクスピアが緻密な計算のもとに作り上げた戯曲のバランスが崩れてしまったような心地悪さも感じており、どこか残念な気持ちを抱いてもいた。
だが、今回観劇した星組B日程からそういったものを感じることがなかったのだ。
その正体はおそらくティボルトの「孤独」の表現にある。
そして「孤独」を抱えるマーキューシオにティボルトの鏡としての役割を明確に割り当てた。
さらに、マーキューシオと補完関係にあるベンヴォーリオには、マーキューシオの鏡だけでは反射しきれない「孤独」を反映させていた。
ティボルトの「孤独」はマーキューシオのそれでもある。
ティボルトの「孤独」を強く描いた結果、マーキューシオとベンヴォーリオの存在もクリアになっていった。
こんな演出方法もあるのかと…目が醒める思いだった。
「ヴェローナに生まれた男はローマの戦士と同じ
敵と戦うために生まれたのです」
幾度となく繰り返し口にしてきたセリフのようにティボルトは一息にそう言うと夫人のもとから走り去る。
ティボルトは時に己に言い聞かせるようにセリフを口にする。逃げたいが逃れることのできないティボルトの精一杯の姿が見える。
場面は進み、ジュリエットの元にヴェローナで一番の金持ち・パリス伯爵がやってくる。
極美慎のパリス伯爵も、これまでにないこれまでにないパリスだった。
正統派の見目麗しい伯爵。家柄も申し分ない、縁談相手として最高の男性に仕上げてきたのだ。
ロミオにもティボルトにも「気取り屋」「間抜け」呼ばわりされているパリスだが、実は彼は気取り屋でもなければ間抜けでもない。
女性、それも気になる相手に格好をつけたいのは世の男性共通のものだ。
「お金もあるし家柄も最高」などと自分で歌ってしまうあたり、気取り屋呼ばわりされても致し方ないが、ちょっとズレた、だが育ちのいい悪気のないお坊ちゃまというパリスの造形は作品に新たな目線と解釈を与えたと思う。
物語後半、キャピュレット卿が娘の幸せを願い自分がを思う歌、"娘よ"がある。女遊びが激しい卿ではあるが、父親としての考え・心情はまた異なるものがある男親の複雑な思いが伝わるいい歌だ。
極美パリスという娘の結婚相手を頭にキャピュレット卿の天寿光希が歌う"娘よ"を聴くとまた別の世界が見えてくる。
政略結婚が当たり前の世界において、結婚は割り切ったものであったことは間違いない。だが、親は娘の幸せ、そして一族の繁栄を願い、文句のつけようのない相手男性と結ばれるようにしたいと考える。
極美パリスはこれまでのパリスほど強烈な個性の持ち主ではなかったかもしれない。だが、パリスがお金や地位だけではない魅力を持った男性としたことで、キャピュレット卿が一族の繁栄と娘の幸せを天秤にかけられぬほどジュリエットを心から心配し愛していたという新たな表現が生まれた。
演者のキャラクターがひとり変わるだけで見える世界が変わるというのはやはり舞台とは楽しいものである。
話を元に戻す。
「ジュリエットを私の妻に」
キャピュレット家にやってきたパリスはティボルトがいるところでさらりと爆弾を投下する。
ティボルトはワンテンポ遅れて、その声に反応する。
瀬央ティボルトの反応はいずれのシーンにおいても一呼吸遅れている。
外から聞こえてくる声は彼にとって無関係なものでしかないようで、このシーンでは「ジュリエットを妻に」という言葉を反芻し理解するのに一瞬の間が開く。
これまでティボルトは、野生の獣のような鋭い感覚を持った人物造詣がなされてきた。連想される言葉は「強い」「激しい」といった苛烈なものだったように思う。
だが、瀬央さんのティボルトは少し様相が違う。
彼がつぶさに反応するのはキャピュレット家の後継者として何かを求められたとき、そして大切なジュリエットに関する情報を得たときだけだ。
それもどこか獏と聞いているのでタイミングは都度遅れている。
熟睡している番犬が異音にピクリと反応し、その後勢いよく起き上がるかのような反応なのだ。
瀬央ティボルトの登場シーンで得たファーストインプレッションー「重い」という感覚はこんなところにもつながっているのかと思うと、彼とっては聞き捨てのならないシーンであるにもかかわらず、思わずくすりと笑ってしまった。
悪気がない友好的なお坊ちゃまのパリスは無警戒にティボルトへ握手を求める。差し出された手を強くはたけばパリスはクルクルと回転し目をぱちぱちとさせる。演ずるふたりの体格と性格に合った演出が微笑ましい。
ジュリエットへの特別な感情を全く隠しきれていないティボルトがパリス伯爵のことを「間抜け」呼ばわりするとキャピュレット卿はぴしゃりとくぎを刺す。
「私はいずれキャピュレット家を継ぐ身」
このセリフを言うときだけ。
瀬央ティボルトはキャピュレット卿を直視することができない。少し目線を落とし、自分に言い聞かせるかのように、胸の前で手のひらを震わせる。幼い子供が勇気を振り絞り親に立ち向かっているかのような姿だ。
「キャピュレット家をお前に譲る前に代々の借金を精算してやる」
そう捨て台詞を吐く卿は完全にティボルトを子ども扱いしている。
「自分を殺して生きてきた」
「キャピュレットを守るさだめ」
「孤独を抱いて生きろというのか」
瀬央ティボルトが吐き出す言葉には自らに課せられた「さだめ」を受け入れきれてはいない青年の葛藤が随所に現れている。
短い歌の中で彼は自らの名前「ティボルト」を7度口にする。自己認識をできずにいる青年が自分の存在意義ーいや、存在そのものを確認するかのようにその名前を繰り返し口にする。
彼はジュリエットが「好き」だと口にしている。
ジュリエットがこの世に存在する。その事実が尊くことで、彼女の近くに自分がいられることに幸せを感じているようにも感じられる。
もし、従兄妹同士の婚姻が認められていたならばー彼は、瀬央ティボルトはジュリエットに好きと伝えられただろうか。
私の答えは否だ。
彼女の存在はティボルトにとって特別過ぎて面と向かって告白をすることなどないだろう。
口付けすることはおろか、抱きしめることも、いや触れることさえも躊躇われる相手。それがティボルトにとってのジュリエットだ。
そんな瀬央ティボルトにとってのジュリエットを「彼にとって不可侵の女神」と友人が表現したが、これが最もしっくりくるような気がする。
ジュリエットの存在がティボルトのレゾンデートル…存在意義であり、ジュリエットの存在こそがティボルトをティボルトたらしめている。
ジュリエットの名を口にすることはティボルト自らの存在を確認する手段のひとつのようだった。
2階にあるジュリエットの居室にいたキャピュレット夫人が階下のティボルトにパリスからの薔薇を一輪、いたずらに落とす。
感情を隠しきれてはいないティボルト。そのジュリエットへの思いを夫人が知らないはずはない。精神的にまだ幼いティボルトを夫人は揶揄い弄ぶ。
夫人がティボルトの名を呼んだのに彼がそれを無視したとことへの軽いお仕置きとでも言わんばかりだ。
ティボルトにはモンタギューの仲間達のように心の内を分け合える同世代の仲間がいない。
或る程度の年齢から後継者たることを求められた彼を叔父のキャピュレット卿が上から押さえつけるかのように厳しく教育したに違いないことは、ふたりのやりとりから容易に想像ができる。
立ち居振る舞いにおいて大人たることを求められた少年が、キャピュレットの家に縛られ、必死に生きていた過程。強制的に大人の枠組みに放り込まれた彼に内在する子どものティボルトに周囲は見ぬふりをしている。
そして、理解者の仮面を被った女性ーキャピュレット夫人からは逃れることもできない。
二十歳になるかならぬかの若者が大人になりきれぬ理由が理解できてしまう。精神的に成熟する過程を踏むことを許されなかっただけではなく、ティボルト自身の選択ー現実逃避なのかもしれない。
「落とし物だ」
その足取りを再び重くしたティボルトはゆっくりと薔薇を拾い、苦しげに眉を顰めると夫人にその薔薇を投げ返す。
あっという間に夜は訪れ、仮面舞踏会が始まる。
ティボルトは舞台中央に登場するがホストとしての役割を果たす気はない。2階の居室から登場するジュリエットの姿をただ見ているだけだ。この日、彼にとっての要注意人物はパリスであるにもかかわらず、ティボルトはジュリエットを見つめることに忙しい。
「パリス伯爵!」
卿がパリスに声をかけるとやはりいつものように一呼吸遅れて、入口の方向を振り返る。ようやくパリスをロックオンしたティボルトは彼をジュリエットに近づけないことに腐心する。
ふたりの間に割って入る演出に始まり、このシーンのティボルトに与えられた振付は何ともコケティッシュで古典的だ。
だが、瀬央ティボルトの動きにはよくマッチしている。
この演出は従前から変更ない。
野性的で俊敏さを感じさせるティボルトにこの古典的な演出は果たして通じるのだろうかーこれまでそんな小さな違和感を抱いていた。
ティボルトの目をくらますのに「あっ!」と言い逃げ出すロミオを彼は捕まえられない。
ベンヴォーリオとマーキューシオがあろうことか会場の真ん中で踊ってみせるが、彼らの姿をちらりと見るだけで気が付きもしない。
いくら仮面舞踏会の雑踏の中であっても。
研ぎ澄まされた感覚を持ったティボルトならばロミオを捕まえるだろうし、モンタギューのふたりに気が付かないはずがないーそう思わせてしまうものがこれまでのティボルトにはあった。
だが、瀬央ティボルトの性格にこの演出はじつによくはまっており、何とも微笑ましいシーンとなっていた。特にベンヴォーリオとマーキューシオが踊るのを一瞥するも気が付かないところはよくあっていたと思う。
パリスをジュリエットと接触させないよう阻止するため、必死に走り回る瀬央さんのティボルト。
別途Aのレポートを書く際に記述するが、愛月さんのティボルトはパリスの動きを完全に読み、徹底的に先回りする。これまでのティボルトに近くはあるのだが、さらに俊敏で獰猛さを備えた性格になっていたことで、また違う解釈ができたのはWキャストの妙であった。
極美パリスは初対面ですっかりティボルトに対しての苦手意識を植え付けられたのか、ティボルトに完全に振り回されている。そしてジュリエットを見つけると無邪気に彼女を追いかけ、再びティボルトに見つかり振り回されるーこの一連の流れがコントのワンシーンのようで実に楽しかった。
そして、A日程を観た今、振り返るとB日程の舞踏会の群舞はミュージカルというよりも芝居のワンシーンのようだったと感じる。
A日程はダンスの迫力で観客は舞踏会の熱にあてられたようだった。
そして、B日程はティボルト筆頭にパリスやモンタギューのふたり…前方で踊るメンバーがキャラクターを前面に押し出して踊ったことで、舞踏会の雑踏に足を踏み入れたような気分にさせられた。
ジュリエットに接触するロミオの仮面を剝いだティボルトはロミオにつかみかかろうとする。そこに割って入るマーキューシオ。
「どうしてここに!」
「神のお導きさ」
マーキューシオのこのいい加減な返答にティボルトの血が沸く。
取っ組み合いの末にティボルトは短剣を抜く。舞踏会会場が騒めいた隙にマーキューシオたちは去っていった。
騒ぎを起こしたことをキャピュレット卿にとがめられたティボルトはゲストを置いて会場を離れる。ホストとして褒められる行動ではない。
卿に対する視線は反抗的というより、なぜ理解してくれないといじける子供のものだ。
ジュリエットへの秘めた思いー「隠しきれない」と歌ってはいるものの、本人は隠しおおせているつもりだがーも、そして叔父に意見することも何もかも思った通りにすすめられない。
大人であるならば、自問自答し、前進する道を模索しただろう。だが、瀬央さんの演じるどこまでも幼いティボルトにはそれができない。
「立場が人を作る」という言葉がある。
「お前はキャピュレット家の跡取りだ」
ティボルトがそういわれるようになってからどれだけの月日が経ったのだろうか。彼が後継者であると周囲から認められるようになり長い時間が経過しているはずだ。
にもかかわらず、当のティボルトだけはその事実から逃げ続けている。
原作のティボルトを想像するとき。「好戦的」という言葉が出てくる。
血気盛んな若者、キャピュレットのリーダーを想像した際にしっくりくる言葉のひとつだろう。
だが、瀬央ティボルトにこのイメージはない。
唾を吐き一触即発の事態を招いておきながら、仲間が剣を抜いたことに怯えてしまうような人間なのだ、彼は。
悪ぶったことをするのは彼がキャピュレットのリーダーであり、相手が幼い頃から敵と聞かされて育ったモンタギューだから。
ティボルト自身が好戦的なのではない。キャピュレット家の跡取りは、モンタギューと戦うために好戦的でなければならない。
なぜなら「大人が仕向けたから」だ。
瀬央ティボルトは大人の振る舞いーいや、大人の「フリ」をして立ち回ることができる。
求められてきた自分の役割を必死に演じてきた。それが自分の意に反するものであっても、キャピュレットの後継者として振る舞っている。
自分の思い通りにことがすべて運ぶことなど、世の中にほとんどありはしない。誰しもがうまくいかないジレンマに苦しむことがある。
そのような状態に直面した時、或る者は現状を変える努力をするだろう。また、或る者は自ら自分を説得し諦めるかもしれない。大人になる過程で誰しもがその岐路に立ち、何らかの選択をし大人になっていく。
だが、瀬央ティボルトは何ひとつ、選択しなかった。
生きることは選択の連続であり、その選択の積み重ねが自信となり、自分を自分たらしめるようになる。だが、彼は自らに与えられた立場だけ、形式的に受け入れ、その実、すべてのものから逃げ続けている。
だから、瀬央ティボルトには自信というものがみえない。彼を彼たらしめる屋台骨となるものが何もないからだ。
「復讐の手先になんかなりたくはなかった」
ティボルトは大人だ。キャピュレットの後継者でさえある。
復讐の手先になることをやめる自由が彼にはある。「子供のころ夢見た 勇気あふれるヒーロー」になることだって本当はできる。
だが、ティボルトはすべてを大人たちの所為にし、その肩を両手で抱きしめるようにして自らの殻の中に閉じこもったままだ。
そんな彼にも、確かに存在しているものがたったひとつある。
幼い頃から宝物であったジュリエットに対する愛情ーそれは女性に対する愛というには幼く不器用な、強い信念のようなものであるのだがーなのだ。
ティボルトはジュリエットを通してしか、自分の存在を確かに感じることができないのだ。
だが、ティボルトの心は打ち砕かれる。
ロミオと出会った翌日、ジュリエットは結婚したのである。
「ジュリエットの存在」に対して精神的に依存しているティボルトー彼の歪んだ憎しみはロミオではなくジュリエットへと向かっていく。
「初めて女を抱いたのは15の夏だった」
ティボルトの周りには次々と女性が現れ、彼の身体に触れるが、その誰をも振り払っていく。
目の前にいるどの女性も目に入らない。幻影のような女性たちの手を振り払い、目の前にいないジュリエットに向かい手を伸ばすティボルトは胸をしっかりと張って歌う。
威嚇動作以外で、ティボルトは初めて胸を張って立った。その瞳に浮かぶのは狂気だ。大切なものが飛び立ってしまって初めて、彼は自分の足で立とうとしているが、それは自立ではない。
ジュリエットは従妹でありティボルトの近くにいただけの存在だ。
だが、ティボルトにとって彼女の存在は自分そのものであったし、心の支えでもあった。彼女は彼の所有物ではない。
それでも、ジュリエットが永遠に自分の元に戻ってくることがないということを突き付けられたティボルトは自分と対峙するのではなく、現実から逃げるため、立ち上がろうとしていたのだ。
しかし、決意を口にすることが彼の限界だった。心に負った傷口はあまりに大きく。モンタギューの集まる広場へ向かう姿は手負の番犬だ。
目は鋭いが、どこか虚ろな部分も感じさせ、少なくともその場にいる誰のことも映してはいない。
ロミオの姿を逃すまいとその一点に意識を集中させている。
「キャピュレットの貴公子がお出ましだぜ」
知ってか知らずか、マーキューシオはティボルトの足元に近づき犬のように座るとまたからかうように上目遣いで犬の鳴きまねをしてみせる。
これまでのティボルトならばマーキューシオに手を出しただろう。
だが、マーキューシオなど目に入らぬティボルトは彼を完全に無視して広場の奥まで歩いていく。
「ロミオはどこだ」
広場奥までやってきたティボルトがモンタギューに囲まれながら呟く。
「噂じゃ実の叔母とあやしいとか」
「うるさい」
マーキューシオが畳みかけると、ティボルトは吠える。
キャピュレット夫人と関係はティボルトにとって最も触れられたくはないもの、そしてジュリエットが結婚したという状況下において聞きたくもないものだが、マーキューシオは確実にそのポイントをついてくる。
ティボルトは自分の体に触れてくるモンタギューの人々の手を叫びながら振り払う。足こそしっかり地につけているが、怒りと動揺で体を震わせるとそれまで張っていた方は内巻きになりわずかに両の肩が前傾した。
手負の獣のような姿だ。
何もかもが目新しかった2021年星組版B日程「ロミオとジュリエット」。
個性溢れるキャスト其々が新解釈に基づきこれまでとは異なる役を作り上げてみせた。瀬央ゆりあのティボルト像もそのひとつであった。
体だけが大人になった子供、自らに枷を科したティボルトの動きを「重い」と捉えてきたが、破滅の道に足を踏み入れた彼の佇む姿によって気が付かされたのは誠実に積み上げられてきた「型」だった。
ミュージカル「ロミオとジュリエット」におけるティボルトは、脚本上において、外面と内面を交互に表現するよう書かれており、比較的役作りしやすい役だと思う。
一方、外面と内面が常にセットとなっている=舞台上に継続的に立ち続ける流れの中で表現しなくてはならず、切り替えが難しい役でもある。
1幕のティボルトの登場シーンは3回。
そのすべてが、ティボルトの為人、すなわち外面を演じさせ、その直後に内面を吐き出すようシーンが構成されている。
幕開き直後、舞台にあがると登場人物として紹介され、直後の"憎しみ"で「脆い自分」を見せる。
ジュリエットの婚約者として浮上したパリスとキャピュレット卿との対峙のあとには、"ティボルト"の歌で「自分を自分たらしめるもの」について自己認識を吐露する。
仮面舞踏会でジュリエットを必死に守る姿を見せ、そのあとには"本当の俺じゃない"と憎しみを植え付けた大人たちへの思いを吐き出しながら「自己否定」する。
そして、2幕の登場シーンは1回。
この1回はそれまでとは反対、すなわち内面から外面というベクトルで構成されている。
"今日こそその日"で「崩壊する自己」を曝け出し、マーキューシオとの決闘へとつき進んでいく。
外面から内面へという「型」が2幕でひっくり返った時、ティボルトが見せた佇まいはヴェローナの街の不穏な空気を一気に澱んだものへと変化させた。
瀬央ティボルトに感じる「重さ」は、ティボルトのキャラクターを想像した時に感じる俊敏さとは無縁の言葉である。
それでも、瀬央ティボルトが新解釈のティボルトとして成功したのは、もちろん緻密に作られたキャラクターあってこそだ。だが、そのキャラクターを表現するに際し、要所要所をきちんと「型」に収めたという点が何よりも大きかったと思う。
1幕、大公に咎められ、体を少し大きくびくりとさせ一時停止するときのタメの動作。ベンヴォーリオに唾を吐きかけるところも同様だ。
パリスの手をはたき、番犬のように噛みつこうとするところ。舞踏会でロミオにまかれてしまったとき。
女性の手を振りほどくため手を振り上げたところで必ず止まる肘。
普通に演じることもできるが、視線が流れてしまうところをしっかりとティボルトに向けさせる工夫が随所にある。瀬央ティボルトの動きは、歌舞伎や京劇にあるような古典的だが効果的な表現手法がうまく組み込まれていた。
また、このタメの動作はティボルトの「重さ」を感じさせる動作から「鈍さ」を取り除く効果もあったと思う。
愛月さんのティボルトは叔父である卿ですら、彼が力を出して向ってきたときには止められないという恐れを感じさせる強さがある。
瀬央さんのティボルトももちろん強い。だが、愛月さんの、触れただけで跳ね返されるー怪我を負ような鋭さはない。
瀬央さんのそれは、周囲が過度に強いと恐れるティボルトなのだ。
それ故、「鈍さ」を感じさせることが決して許されない。
瀬央さんはしっかりとしたタメを作ることでティボルトの「重さ」だけを見事表現しきった。
そして。
彼の鏡である天華マーキューシオが体を全体的に脱力させた「緩さ」を感じさせる佇まいであったことも「重い」ティボルトとのいい対比となった。
ティボルトが空気を澱ませたヴェローナの街。そこに滓を降らせたのは外ならぬマーキューシオだった。
いつもと異なるティボルトの様子を見たマーキューシオは嗾けに行く。
天華さんが演じるとマーキューシオはこの物語に出てくる若者たちの中で、実は最も「大人」な存在となっている。ただし、この場合「大人」とは決していい言葉ではないだろう。
街を二分するモンタギューとキャピュレットの争いが続き憎しみが連鎖し続けるヴェローナで全てをあきらめた子供が、この街で生きていくため消極的な選択を積み重ね「大人」になろうとしている。その結果が今のマーキューシオの姿だ。
現代においては、ニュースで流れてくる戦場の映像。その中に、あどけない姿に不釣り合いな大人の目をした子供を見ることがある。絶望という言葉を覚えるより先に強制的に心を閉ざされてしまった幼い子供の物言わぬ瞳とマーキューシオが仮面を剥いだ時に垣間見える素顔ーそれは極めて同質なものに私には見えるのだ。
いい加減で甘えん坊、自ら道化として振る舞うマーキューシオのその行動は「大人」とは一見無縁だ。だが、ヴェローナに生きる彼は対立する両家が和解することがないことを痛いほど理解している。
彼は選んだ。ティボルトの言葉を借りるならそれは「ピエロ」として生きることだ。だが、それはマーキューシオが望んだものではなく、自己防衛の術として選択したものなのだろう。
それでも、マーキューシオには救いがある。ロミオとベンヴォーリオが隣にいるということだ。ティボルトが望むことがあったとしても手に入れることのできない大切な友が存在する。
ティボルトを彼たらしめるのがジュリエットであるのと同様、マーキューシオをマーキューシオたらしめるのはロミオとベンヴォーリオであった。
だが、ティボルトの一方的なそれとは異なり、マーキューシオにはロミオとベンヴォーリオという友が確かに存在する。そして、マーキューシオは極めて直感的、そして感覚的ではあるものの、その事実に気が付いている。(一方のティボルトは理解者や友がいないということが自分の精神的弱さの根源のひとつであるとの認識ができていない点が興味深い。)
それ故、ティボルトのただならぬ様子がジュリエットの結婚に起因するものであること、そしてその事実がティボルトを彼自身ではなくしてしまっていることにも本能的に気が付いてしまったのだ。
「そんなことより自分の心配したらどうだ」
マーキューシオは自らティボルトに肩をぶつけに行き、右手人差し指をくいと動かしながら暴言を浴びせるが、その挑発にもティボルトが乗ってくることはない。マーキューシオに態々肩をぶつけに行く好戦的な愛月ティボルトとは対照的だ。
だが、あまりに反応のないティボルトにマーキューシオが短剣を引き抜くと、ティボルトはついに「誘い」に乗る。
「マーキューシオ、自分を見ろ お前はピエロだ」
この言葉にマーキューシオはピエロとしてお辞儀をしてみせるが、それまで彼の顔に浮かんでいた不敵な笑みは完全に消えている。お辞儀をする様子を嘲笑うように絡みにきたキャピュレットの女性をマーキューシオは全力で振り払う。
これまで余裕のあったマーキューシオの心をティボルトが抉り返しに来た。攻守交代だ。
瀬央ティボルトはシングルタスクで目の前にあるものしか見ることができない。なにかにつけて器用とは言い難いティボルトは、跡取りに求められるモノを次々と与えられる中、目の前に出されたものに必死に食らいついていくことでしか生きてこられなかったのだろう。
あれだけ必死にロミオを探していたにもかかわらず。
マーキューシオと取っ組み合いを始めると、ロミオの声が聞こえてこようと、その声に反応することもない。それどころかふたりの間に割り込み、引き離したのがロミオであるということに気が付くまでも間がある。
瀬央ティボルトは直情的ではあるものの、瞬間的に頭に血がのぼり暴挙に出るタイプではない。どちらかと言えば一呼吸おいてモノを考えられるタイプだ。
ただ、他者との人間関係を上手に構築できないティボルトは、自らの行為が周囲の人々の心や行動にどのように波及していくのかということを推察する能力に欠けているだけなのだ。
物語冒頭、ベンヴォーリオに唾を吐きかけた結果、一触即発の事態を招いたティボルト。当時の彼には最後の一歩を踏みとどまらせるだけのもの、すなわち心を引き留めるものがあった。
だが、ジュリエットの結婚により踏みとどまらせるものがなくなったティボルトは畳みかける。
「臆病なのはお前だろ」
マーキューシオに最も精神的ダメージを与えられる言葉が何であるか。
ティボルトはよく理解している。何故なら、自分が精神的に抉られた傷を抉り返すだけだからだ。
ティボルトはマーキューシオの傷を深く抉り出すという明確な意思を持って言葉を紡いだ。
「ティボルト!」
ふたりがそれぞれの短剣を抜いたのも振りかぶったのも同時だった。
ティボルトの短剣がマーキューシオに刺さったのは、ティボルトが持たざる者ー友であるロミオがマーキューシオを止めに入ったからだった。
シェイクスピアの描く群像には「人間」の本質を見せつけるシーンがたくさんある。そして、そんな「人間」に対する愛おしさ、そして皮肉が多分に描かれている。
友を持たざる者が持つ者を刺し殺す。刺殺を助けたのは外ならぬ「友」という強烈な皮肉だ。
短剣を抜いたその段においても。
ティボルトは明確にマーキューシオを殺そうとは思っていなかったのではないだろうか。
体に剣が突き刺されば死ぬ。当たり前のことだが、そんなことすら頭に浮かんではいなかったように思えてならない。
減らず口を叩くマーキューシオのその口を。ほんの少し黙らせる程度に脅せたならばーと考えていたのではないだろうか。
他方、マーキューシオも。
ティボルトによるこれほどの反撃を想像していなかっただろう。
人間誰しも、人に踏み込まれたくない領域がある。マーキューシオはその域を見誤ったのだ。マーキューシオには友がいる。マーキューシオをマーキューシオのまま存在させてくれる友が。
だが、ティボルトにはそれがない。
ティボルトとマーキューシオは鏡の関係にある。
だが、友を持つが故にマーキューシオは持たざるティボルトの孤独を本当には理解できなかったのだ。そのぎりぎりの境界線を彼は見抜くことができなかった。
剣を通して伝わるマーキューシオの体の感触。
そして、マーキューシオから引き抜いた血が滴る短剣を前に、ティボルトはほんの一瞬、驚きに目を丸くし動揺したかのような表情を見せる。
短剣を掲げ流れる血をみるうちにマーキューシオを刺した実感がわいてくるティボルトの目からは狂気の色が失われていき、どこか満たされたようなものさえ感じられたのだ。
目の前にジュリエットを奪った憎きロミオがいるというのに。ティボルトはその存在を完全に忘れ、キャピュレットの輪の中に戻っていく。
マーキューシオがティボルトに投げ続けた言葉は、子供のまま大きくなったティボルトが成長過程において無意識に聞かないようにしていたものばかりだった。
ティボルトが刺したのはマーキューシオの肉体だったが、実際に死んだのはティボルトの中に存在する自分自身だったのだろう。ひょっとしたらティボルトには短剣を抜いたマーキューシオが自分自身に見えたのかもしれない。そんなことを想起させるものだった。
心の声から解放されたティボルトはわずかの間、笑ってみせた。
手を広げ仲間に向かい何かを語る後ろ姿にはひとつ荷物を下ろしたことに対する安堵感のようなものが感じられた。
だがそれはロミオの短剣がティボルトを刺すまでの一瞬のことだった。
ロミオに刺され、よろめき後ずさったティボルトは階段に倒れこむ。
体勢を整えロミオに短剣を向けるが、短剣は彼の手から零れ落ち、彼に死が訪れる。
短剣を向けたのが反射的なものだったのか、それともキャピュレットの後継ぎとしての無意識の意識だったのかーそれはわからない。
死後の世界へ旅立ったのは根底で同質なものを持つティボルトとマーキューシオだった。ティボルトを刺したロミオの心のうちに愛月さん演じる「死」がティボルトとマーキューシオを遣わす。
死したことを理解したふたりは永遠の暗闇に消えていくことを悟る。
ロミオとベンヴォーリオに別れの言葉を告げて亡くなったマーキューシオは自らに訪れた暗闇を恐れる。
一方、突然に命を奪われ、死を認識できていなかったティボルトは暗闇の正体を理解できず、闇の中を歩き、そして足掻いてーようやく自分が死したことを理解する。
自らを暗闇へ追いやったロミオに向けられたティボルトの「憎しみ」だけが舞台上には残り、ロミオに「運命の終わり」を告げた。
瀬央さんのティボルトは孤独の中で誰にもージュリエットにさえ助けを求めることすらできない幼い子供だった。
彼の孤独を理解するものは誰一人おらず、またティボルト自身も自らその肩を抱いて強くあろうとすることもできなかった。
大人から意図せず「与えられ」てしまったキャピュレットの後継ぎとしての運命に。本人なりに一生懸命立ち向かい、絶命していくー
哀しい存在であった。
彼が「孤独」に足掻く姿は1幕において、大きなアクセントとなっていた。
1幕の楽曲は冒頭のヴェローナの街と"僕は怖い"を除けば、明るくエネルギーに満ちたものが多い。言うまでもなく、悲劇の2幕をより強調するためのものである。
演じ方次第ではともすれば単調になりかねない1幕が悲劇の前章となりえたのはティボルトの孤独と、ぱっと見正反対の性格に見えるが同じ孤独を持ち、理解するマーキューシオの対比が鮮烈であったからに他ならない。
残念ながら、私は瀬央さんの舞台を生で拝見したことはそう多くない。
観劇はしていても彼女の存在をしっかりと認識してた上で、あえて言うならば注目して観たことは左程多くなかった。
名前も知っている。存在も知っていた。もちろん、芝居を観たことだってある。だが、どこか控えめで遠慮をしているような印象が強かった。
それが、2020年夏、「眩耀の谷」を観たとき、瀬央さんがしっかりと地にをつけ、自らそこに立ったように見えたのだ。
キャスティングされた役が魅力的な人物で、役を作りやすかったことは事実だ。だが、芝居の中盤、礼真琴の劇場中に響く声に瀬央ゆりあの声が乗った瞬間、ふたりの歌声が掛け算となり、広がった景色に魂を抜かれたのだ。
その後、「龍の宮物語」の放送を拝見し、瀬央さんは自らの枷を外したことを。そして、新たなものを手にしたのだろうと感じていた。
これは推測に過ぎないが、瀬央さんはおそらく器用な役者ではない。
脚本を前にその役が息づくまでじっくり考え、役の姿が見えてくると一気に掘り下げていくタイプではないだろうか。
芝居心があり、容姿や立ち姿にも恵まれているが、表現する術が間に合わなかったのだと思う。だからこそ、ひとつひとつ目の前にある課題や目標を着実に積み上げ、クリアしてきた人のように思う。
瀬央ティボルトの不器用さは、実は瀬央さん自身が持つ不器用さなのかもしれない。キャピュレットのリーダーとして必死にもがく姿はこれまで瀬央さん自身が戦ってきた姿そのものなのかもしれない。
私はこれまでミュージカルであるか以前の問題で「ロミオとジュリエット」という物語におけるティボルトというキャラクターがどうにも理解できなかった。
血気盛んな若者。若さを武器に強引に走り切ろうとする彼に理解のかけらひとつ持つことができなかった。
元々、この物語の登場人物に共感をすることは時代背景が異なることから現代の価値観と相違がおおきく難しい。だが、ことティボルトに関してはその傾向が強くあった。
ミュージカル版で追加された設定、すなわち叔母との不倫関係とジュリエットへの恋心という要素が加わってもティボルトに対する印象が大きく変化することはなかった。
それはフランス版や宝塚版、東宝版と異なる潤色・演出がなされていても共通するものだった。ゆえに「ロミオとジュリエット」という物語に流れる普遍的なものを伝えるために、構成要素として必要な役以上の感情を持つことがなかった。
瀬央さんと天華さんがみせた「孤独」はミュージカル版「ロミオとジュリエット」の新しい世界観を示すものになるかもしれない。
今はそう思っている。
新たな「ロミオとジュリエット」に出逢えた喜びに感謝したい。
最後に。全くの余談となるが。
ミュージカル本編が終わり、フィナーレの冒頭。
セリ上がり歌う瀬央さんの姿に泣きたい気持ちになった。
シンプルな白のミラーボールが2小節ごとに回転方向を変える。
(なお、A日程の愛月さんのそれはブルーで一方向に回り続ける。)
その動きがまるでペンライトの揺れる波のようで…ミラーボールが回転を止め、動きを反転させるところが、不器用な瀬央さん演じるティボルトそのもののように感じてしまったのだ。
そんな些細なことに目が潤んでしまうほどに素敵な世界を見ることができた幸運に感謝したい。
宝塚歌劇 星組公演「ロミオとジュリエット」感想アーカイブ
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