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黒チャリと幻游社のころ

2010年の春、自分は大学生になった。中高一貫で6年を過ごした男子校を出て、都会の学生さんとなるのだ、と意気ごみ初めて一人暮らしも始めた。
「入学手続きがなんだ」「語学選択がどうした」「新歓コンパがいつだ」と浮つくキャンパスにはどこぞのサークルの立て看板が並び、先輩諸氏がニコニコしながらビラを配っていた。
卒業が近くなったころにやっと悟ったのだが、春になるとテーマパークのごとく沸き立つのは、実は正門や食堂の周りの限られたエリアだけだ。修士・博士をめざす敬虔な学徒たちが日夜励んでいる研究棟はもっと別の区画にあ暗い目をしたり、そこには浮ついた春は無い。心身を学問に捧げる人間たちが、寄らば切るという眼光でレポートを叩いている世界なのである。
ともあれ、新入りの自分にはそんなの関係がない。自分は花の大学生になったのだった。

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その頃住んでいたのは下北沢だった。路地がせまく古着屋が多く、若者も年寄りもどっちも多い町で、小汚い居酒屋が多いのもいかにも学生の根城という感じで、何事も形から入るタイプの自分は少しテンションが上がった。
渋谷でツレとダーツをたしなみながらスクリュードライバーをあおる世界観よりも、その辺で500円で買った古着のパーカーを羽織って、乾物屋で茶葉でも買う方がなんかオツな学生という気がするではないか。
大学生協で買った、昔の郵便局員が乗っていそうな黒塗りのママチャリでワクワクしながら路地から路地を行き来した。
このチャリンコは買ってからすぐに錆びて、ペダルを踏むたびにガラガラという変な音がするようになったが、おかげでベルを鳴らさなくても歩行者がみんな気づいてくれるので、ある意味便利だった。

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せっかく大学生で一人暮らしもしているのだからバイトで小遣いを稼ぎたい。家庭教師のアルバイトで賢くお金を稼ぐ友人もいたが、自分はせっかく大学に合格したんだから受験勉強から距離を置きたくて、喫茶店でのバイトを選んだ。
スタバやプロントのようなお洒落なカフェではなくて、下北沢のご老公達がアメリカンとたばこをたしなみにくる「喫茶店」である。
愛煙家のたくさん来る店で、喫煙席と禁煙席の間には小学生の身長くらいの、申し訳程度の”仕切り”しかない。なので禁煙席といってもタバコの匂いや煙が凄くするので、お客さんに文句を言われることも多かった。バイトの服はすぐにケムリ臭くなった。

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バイトの時給は850円だったので、とにかく金が無かった。バイトが終わった後、疲れたので一人で居酒屋に入り、その日バイトで稼いだお金を全部使ってしまったこともある。そんな夜は寝る前にその日1日の収支のことを考えて、いったい自分は何をしているんだ?と思った。
そこで、一番金のかからない趣味として古本を見つけた。下北沢には小さい古本屋が密集していて、1000円くらい持って一巡りすれば本の山が持ち帰れた。軒先のワゴンに積まれているような岩波文庫だと、1冊50円というのも珍しくなかった。それで3時間は楽しめるので、恐ろしく燃費のいい趣味である。阿部公房やハヤカワSFはいろんな古本屋で安売りされているのでよく読んだ気がする。

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下北沢の南口を出て、放射状に広がる下り坂の1本を降りていくと、キッチン南海の隣に幻游社という古本屋があった。
細長い部屋の壁際と真ん中に本棚が置いてあって、「回」の字の形のようなレイアウトになっている。通路はすれ違えないくらい狭かったので、混んでいると時計回りにしか本棚を見て回れなかった。
「回」の字の奥に店主のお爺さんがいて、いつも半分寝ているように本を読んでいた。冬はストーブが暖かそうだった。
ともあれ、この幻游社さんが一番好きな古本屋で、坂道を通るたびになんとなく立ち寄っていた。
毎日大量の新刊本が出て、同時に大量の本が絶版になるという出版事情を何かで知ってから幻游社に来ると、見慣れた古本たちが少し違って見えた。200円や300円の本でも、ここで買わなければ人生で2度と手に取れない本がざらにあるのだ。そう思うと、店主のお爺さんが読んでいる本が一体何なのか気になりもした。実はマニアの間で何百万円もするような稀覯本をひっそり一人で楽しんでいるのではないか。

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辻邦夫の小説だったと思う。幻游社の本棚で見つけて、面白そうだと思って買おうとしたが、値段がわからない本があった。だいたい本の最後のページの右上に値段が鉛筆書きしてあるのだが、見つからない。カバーを外してみてもない。色々探してみたが値段はどこにも見つからなかった。
まあ、文庫だからそうそう高いこともあるまい、と思って店主のところへ持って行った。お爺さんは、さっきまでの自分と同じように本を何度かひっくり返した後、何事もなかったかのように「300円」と言った。
値段を書き忘れていて、しょうがないからその場で値付けしたんだと思う。

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幻游社はもう無い。総じて、のんきで何ともぜいたくな話だったとおもう。

#大学生 #エッセイ #下北沢 #古本

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