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40ZB(ゼタバイト)の情報のなかで

2020年には1年に流れる情報量が40ゼタバイトに達するのだそう。(1ゼタバイトは、世界中の砂浜の砂粒の数に匹敵するらしい。。。)地球上にある全ての砂粒の40倍に登るほどのデータがたったの1年間で流通すると考えると気が遠くなる思いがします。この呆れるほどの膨大な情報量に埋もれる社会を、数年前から「砂の一粒」時代なんて表現するようになったのです。

情報のゴミに咲く花

これだけの情報に埋もれて生活していると、知識として情報を蓄積することにどれだけの意味があるのか疑問に思うようにもなります。わたちたちはこの膨大な情報の中のほんの一部分でお互いに優劣をつけ、耳くそほどの違いに幻滅する。そして、朝露の水滴にも満たない情報で世界を知ったつもりになっている。すると、ほんとに大切なのは情報そのものではなく、それを感じる人間性であったり情緒なのではないでしょうか。

情報フィルターが性格を生む

人は自分以外の人やモノと意識を共有することができません。どんなに心を動かされたとしても、外部から来た情報を頭の中で処理して「共感した」と感じているにすぎません。これは同じ情報も受取る個人によって変化することを意味しています。好まざる結果を嫌悪感で受け取るのか、暖かい心で受け流すのか、誤解を恐れずに言えば結局人は自分の見たいものを見、感じたいものを感じているにすぎません。情報をどのように自己で処理するかによって自分という人間が決定されているのです。溢れかえる情報の中で、その情報を処理するフィルターのようなもの、それがわたしたちの性格なのだとわたしは思います。(フィルターという表現が適切かどうかはわからないけれど)これは社会でも同じ。社会にも同様のフィルターがあり、どのようなフィルターを持つかで、そこにどんな負担がかかり、どんな楽しみがあるのかが決まります。つまり情報の扱い方によって人間性や、社会のあり方が大きく変わってくるということ。

どんなフィルターを持ちたいか

この数十年の短い期間に、情報のあり方が目まぐるしく変化しています。長い歴史の中で情報の「あり方」が根底から覆されようとしているのです。ありとあらゆるものがデータ化され、蓄積されていく中で、わたしたちは何を目指しているのか?情報社会に何を求めるのか?どういうフィルターをかけて、そこに暮らすどんな生活を求めるのか?技術は進歩しますから、ある程度のことは技術が補ってくれます。しかし問題の本質はわれわれが「どうしたいか?」の選択にあるのです。IT関連職に就くわたしが投げやりなこと言うようですが、、、結局、答えはIT技術からは導かれない。答えを出すのは今ここで暮らしている、わたしたちの人間性ではないでしょうか。社会の中でどうしたらみんな幸せに生活できるのか?ただ流れる情報に流されることなく、自ら考え選んでいかなければと思うのです。



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