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商業道徳の先へ | 今のニッポンと渋沢栄一

日本経済繁栄の父、渋沢栄一の名著「論語と算盤」に触れて、ふと思うところがあった。本著は言わずと知れた、論語をビジネスにインストールするための心得である。例えば、「商業道徳」という言葉に代表されるように、妨害によって人の利益を奪う競争ではなく、人への気配りと絶えざる自己開発を通じて善意の競争を行いなさいとある。

実際、道徳心とビジネスの両立は難題であるが、多くの企業が既に基本動作として道徳的な指針や行動を取っている。

そこで「他人を尊ぶ日本の教育を世界に」という記事が目に留まる。思い出せば、小学生の時分、月曜日の一時間目と言えば、道徳の授業であった。

正直、当時はよくわからなかったが、記事をきっかけにいろいろ調べてみると、日本の道徳教育は何も授業内に閉じられた話ではなく、掃除などの「係」であったり、生き物の飼育などを通じても行われているのだと知った。

確かに。掃除や身の回りのことを自分たちでやり、生き物だけではなく物や近隣社会との共生を大切にする教育文化は独特なのかなと実感する。昨年はW杯でも日本のサポーターのゴミ拾いが話題となったが、こういった教育の賜物なのだろうか。

改めて渋沢栄一である。多くの企業がまさに渋沢イズムを踏襲して、自己の利益追求だけに邁進せず、社会、顧客、社員、時には競合の繁栄をもたらす社会の公器としての役割を果たしてきた。論語と算盤から100年強、その間多くの企業が誕生し、倒産したが、生き残っている企業は大きな不祥事無く何らか社会的使命感を持って取り組んできた企業が多い。例えば、創業100年以上の歴史を持つ東京海上グループのグループメッセージ「To Be a Good Company」に代表されるように、「良い会社」、「信頼できる会社」でありたいというメッセージは日本企業によく見られる。

私たちに深く刻まれた道徳心が、企業の"人格"にも如実に現れている。「誰かのために」が常に意識され、社会貢献と直接結びつくとなお燃える。

ここからが今日の本論であるが、実はこの「商業道徳」が今のニッポンの競争力を削いでいるのではないかとも思う。「人の褌(ふんどし)で相撲を取る」ことを良しとせず、あくまでフェアプレーを追求していて、本当にこのカオスな競争環境で勝てるのであろうか。

モノづくりや自前リソースにこだわれば、UberやAirbnb、インドのOYOのようなサービスは生まれないし、データの利活用について昔ながらの顧客とのガチガチのNDA(秘密保持契約)などにこだわっていては必要なデータが集まらず、GAFAにますます水を空けられるばかりである。通信・インターネットの事業者が、「YouTubeやFacebookは自分たちの通信インフラにタダ乗りしている。フェアではない。」と言っても今や一般の人からの理解は得にくい。

上記のような、ニッポンの企業にとって脅威となっている企業に、道徳心がないわけではない。国籍問わずどの企業も顧客を始めとするステークホルダーがあって成り立つが、道徳心の深度と幅の違いがある。

下はパナソニックの綱領であるが、対象とするステークホルダーが地球規模で広く、世界の繁栄に寄与したいという意気込みを感じる。

産業人たるの本分に徹し社会生活の改善と向上を図り
世界文化の進展に寄与せんことを期す
https://www.panasonic.com/jp/corporate/management/philosophy.html

一方でAmazonの企業理念。地球規模であることは変わらないが、自社の顧客が強く意識されている。Amazonは自社の顧客に次々驚くべきサービスを提供し、それに伴ううなぎ登りの株価で株主も潤す。

Earth’s most customer-centric company.
地球上で最も顧客想いの企業となる。(https://www.amazon.jobs/en/working/working-amazon

どちらが良い悪いという話ではない。しかし、ニッポンの企業ももう少し利己的になっても良いのではないかと思う。360度ステークホルダーに気を配り、公共性をもって事業を営むことは美しく尊い。しかし、それは本当に経営者や社員の腹に落ちているだろうか。100%の人を満足させられることなどあるのだろうか。私たちは誰を見て仕事をしているのだろうか。「道徳的であれ。」という無言の圧力、いやそれを逃げ口上としていないだろうか。

ただ、世界は常に有機的に動き続け、過度に利己的なものを排除しようとする自浄機能も具備している。先のデータ利活用についても、各国の規制が強まり、GAFA各社も対応が迫られている。そんな中、NTTは「データはお客様のもの」とごく当たり前のステートメントが一つの決め手となりラスベガス市から受注した。データの利活用/データの所有権一つとっても、右から左に、左から右に大きなうねりがある。ただ果たして、そのうねりの中で利己的な者は力を弱められていくのだろうか。そこで道徳的な行動を常とした利他的な者が生き残っていくだろうか。

改めて、渋沢栄一や歴代の素晴らしい経営者、各企業の努力もあり、ニッポンの企業には道徳心が不文律として備わっている。それも深く根付いている。故にそこに拘泥する必要はない。今こそその先に進むべきである。

では、どうあるべきか

偉そうなことを言っておきながら、自分自身は全然できていなかった。今もできていない。思えばインドでマネジメントをしていたとき、100人の会社を動かす言葉、例えば経営理念はおろか目標達成に向けたメッセージもろくに作れなかった。紙の上に勢いの良い言葉がただ踊る。言葉は、聞く者の胸に刺さり自発的な行動を促して初めて生きる。自分の全生命をかけなければ、とても聞けたものではないだろう。

大和魂とも言える道徳心 ✕ 「」

この「」こそ、内面から来る衝動や欲求になるはずだ。最大公約数で選び抜いた言葉ではなく、自分自身の言葉。あの日の自分に胸ぐらを掴んで言いたい。

渋沢栄一のお陰で私たちは善く戦い、長く生き抜くセンスをDNA的に培うことができている。もはや血である。冒頭の記事の通り、世界に輸血可能で、世界を救うものだ。いま、この不確実性に溢れる予測不可能な時代にあって、その血が流れる自分が「何をするのか」「なぜ自分(自社)なのか」が真に問われている。

ファーストリテーリングの柳井正会長は、ある年の年度方針をただ一言「儲ける」とした。ずぶーっと胸に刺さる言葉である。ユーモアすらも感じる。私たちはたくさんのビジネスに効く道徳的な不文律を持っているからこそ、余計な言葉を排除できる。

シンプルな言葉で良いのだ。みんなの腹に落ちれば、各々自律して動き出す。私たちは目の前の人のゴミを拾いながら、自分たちの成果も追求することができる。

正しいことをしていれば、利益を追求することは悪いことではない、と天国から渋沢栄一が応援してくれている。「先へ進みなさい。」と言ってくれている。


参考文献


いつも読んでいただいて大変ありがとうございます。