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『変』という評価と『ポジティブ』の関係性


初回に定義した『備忘録』からは少し逸脱した内容になる。
そして、すでに擦り倒されている話題になることを詫びたいと思う。

コンプライアンスという大きな時流により、良識のある大人同士の交流上、面と向かって「あなた変ですね」だなんて会話相手を直接非難するようなセリフを言うことは限りなくゼロになったと思う。
(前時代にはあったという私の想像が前提。)

だが現代は『あの(人、もの、こと)は変だ』
と批評・発信は各種媒体を通じ匿名でも容易にできる時代。
発信者がいれば受信者も当然いる。

今回記したいのはその受信者についてである。

自己を形成する核として機能している部分
所謂アイデンティティー、また自信と共に確立されていることに対してであれば変という評価を表面的には受け流しながら
心の中で誇ることは悪くはないと思う。
社会の大多数の人はこのようなリアクションを取ると思っている。

もちろん、絶対に譲れない部分を非難されたのであれば
自身の思考と主張をぶつけて対立が生じても良いと思う。


だがそういうソリッドな部分でない箇所に対しての『変』という評価を受け、条件反射的に「自分は特別なんだ」という自認をすると同時に、対外的に誇りだす人間と近頃接する機会が多いなと感じている。


ポジティブという言葉の本質を捻じ曲げて
自分の中に落とし込んでいる人なのだと思う。


「変」→「異質・異常」ではなく
「変」→「特別・個性」という意味合いでしか理解しない人が増えたなとつくづく思う。

これは社会が多様性への理解を求め過ぎた弊害でもあると感じている。

こういう人のことを私は『ソフト老害』という言葉に肖り、『偽ポジティブ』と呼称している。

偽ポジティブの人間は、
自身の言動行動が人を不快にさせてしまっている
ということを反省をしないどころか、その可能性にさえ気づいていない。

偽ポジティブの人間に対しては
少々鋭利な表現であったとしてもこちらの不快感を伝えられるように言葉選びをしながら接するようにしている今日この頃。

その言葉選びを聞いた第三者に不快感を与えないようには気をつけていこうと思う。


全方位への配慮。
必要だとは感じるが加減は難しい。

考えすぎてストレスゲージがカンストすると
いっそリンクの回転斬リ、
もしくは日向ネジの八卦掌回天を自身で発現させあらゆるものから距離を取りたくなる。

社会復帰ができなくなるので
理性でその衝動を抑えているがいつまで我慢が効くかはわからない。

チャクラは十二分に練れている。



大谷さんご結婚おめでとうございます。

よろしくどうぞ。

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