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私の人生をかえた「目立たない人と仲間になる」出来事

学生時代を振り返ってみて良く思うことがある。
もっとあの人に優しくしてあげられたということ。

中学時代、だいたいのことは人並程度にしかできなかった。部活でもレギュラーか補欠かの境界線。勉強もそこそこ。イケメンとは程遠い。彼女も欲しかったができなかった。目立つグループではなかったが友人には恵まれていた。

同じ学年には男性からも女性からもモテるグループがあった。何をやっても出来てしまう優等生。しかもイケメンではなしも面白い。私の好きだった女の子もそのグループに属していた。

まあ平均的だった私としては、目立つグループとも接していたのだが、ずっとある疑問を抱いていた。その疑問は今も解決出来ていない。それは私の人生において解決したい問題のひとつになってしまった。


私の人生をかえた「目立たない人と仲間になる」出来事

学生時代は「面白い、イケメン、スポーツができる、頭がいい、背が高い」などの条件に1つ以上当てはまると目立つ。そしてチヤホヤされやすい。しかし、どの項目にも残念ながら中の中ぐらいだった私はチヤホヤされなかった。

ちょうど目立つ人も目立たない人も平均的に接することができていた。女子にモテたいという気持ちがメッチャあったが、誰とでも普通に接することが出来たので満足していた。

しかし、この時ある疑問を抱いていた。それは「チヤホヤされているひとは目立たないひとと話さない」ということ。普通に考えれば「当たり前」だと思われるがち。だけど私にとってはとても疑問だった。


チヤホヤされている人と接するメリットがない


中学のとき、バスケ部主将の人気者T君に会いに隣のクラスへ行った。人気者なので人だかりがすごい。やっとの思いで話すことが出来たが、周りから次から次とひとが湧いてくる。

私が話している最中にも廊下から「おーす!」と声をかけてくる。内心「すげーな」と思いながらもメッチャ疑問が湧いた。それは「こいつは人気者だから自分が接する必要ないんじゃないかな」という疑問。普通に考えたら変だ。

でも、多くの目立たない人達は話しかけられずにいる。チヤホヤされてないから倍率が少ない。簡単にいうと友人が少ない。私自身チヤホヤされていた訳ではないが、比較的誰とでも気軽に話していたので、この疑問を抱いたのだ。

だったら目立たないクラスメイトと色々話してみたいという気持ちが湧いてきた。チヤホヤ君は例えるなら芸能人。わたしが声をかけなくて困ることはない。ということで、チヤホヤ君に割いていた時間の一部を目立たない君に使い始めた。


「目立たない君」たちと接することでの変化


ある日から目立たない君たちとも進んで接するようになった。今まで自分から一度も声をかけなかったのにある日を境に急に接するようになった。彼らの驚いた表情は今でもよく覚えている。

私が試してみたのは、「彼らにどんな自慢できる点があるのか」ということだった。例えば背が小さくスポーツが苦手なO君。ちょっとキザな奴でドラえもんで例えると「スネ夫」だ。あまりにタイプが違うので今までほとんど接していなかったが意を決して話しかけた。

O君と心を開いて話しかけたのは、この取り組みでの第1号だ。実は失敗に終わった。実はO君はめっちゃ論理的な思考ができるやつで、私は口喧嘩で叶わなかった。何かと私をいじってくるので、正直「コイツめんどくせーなー」ってイライラしながら距離を保ったことを覚えている。

ちょっと動きがカマっぽいM君との取り組みも失敗した。私が親しそうに話しているから、周りの連中から私たちが「ホモじゃねーの」ってからかわれ始めたので、私もちょっと危険な空気を察知して距離を取ったのを覚えている(笑)

しかし、チヤホヤ君と接するよりも実は楽しかったのだ。チヤホヤ君って秀でているスーパーマンだから、あまり彼らで笑えることってない。一方、目立たない君たちはツッコミどころが満載。しかも、ツッコムとツッコミ返してくる。しかも倍返し。この辺が人とのコミュニケーションがチヤホヤ君ち違い慣れていないのだろう。

でも完璧ではない目立たない君たちと接していると楽しいのだ。決して目立たない君たちをバカにしているのではない。


目立たない君たちとうわべな関係を超える


目立たない君たちと少しずつ接する時間を増やしていく中で面白いことがあった。少しずつ信頼関係ができていくと、彼らは彼らでメッチャ悩んでいることを正直に打ち明けてくれる。モテない。運動ができない。女子と話せない。親と喧嘩したなどなど。

チヤホヤされていない分、不満に思っていることをぶつけてくるのだ。チヤホヤ君と一緒にいてもあまり不満は出てこない。出てきても違う次元の悩みだ。

お互い不満に思っていることをぶつけていると、相手の嫌なところが見えてくる。「コイツめんどくせー」と思うこともたくさんある。しかし、うわべな関係をあっという間にクリアーできる。

私はチヤホヤ君と接していた時間の半分を目立たない君と接することで、実にたくさんの仲間ができた。おそらく周りの従来からの友人達からみたら「小川なんであんな奴らと仲良くしてんだー??」と思っていたに違いない。

しかし、とても心の中では満足していた。だって相手に人気があるない関わらず多くの仲間が出来たからだ。

私はあえて「友人」ではなく「仲間」だと思っている。同じことのように思えるが私は全く違う表現で使う。


「友人」と「仲間」の違い


私は同じ環境でともに過ごすひとのことを「仲間」と呼ぶ。中学時代の彼らはみんな仲間だ。思春期という心が不安定な時期にともに苦楽を共にしたからだ。だから、ある数人だけを「友人」とは呼ばない。

これは、目立たない君たちと接するようになって気づいたことだ。

だから、相手がチヤホヤ君だろうが、目立たない君だろうが、ムカつく奴だろうが、同じ時期に同じ環境で過ごした奴は仲間だ。なので、誰にでも話しかけるようにした。周りが私の評価を下げようが構わない。


そんな私が大人になってからの話し


そんなこだわりを持った私が社会人に進んでも同じことが続いた。会社に入ると誰と誰が仲が良いという話が話題になる。それが上司部下だと話に盛大に花が咲く。もしかしたら社内派閥ということになり、出世争いの関係することにもなる。

しかし、私は相変わらずどんな奴とも話していた。会社が問題児と言っていた奴ともだ。誰とでも仲間だと思って接するからこそできたこと。人事部長が参加する飲み会でも、相変わらず目立たない人達ともわいわい騒いでしまい、人事部長にお酌するのを忘れていたぐらいだ。

私にとってみれば人事部長はチヤホヤ君なので、私がお酌をしなくても行列してでもお酌をしたい人がたくさんいるのだ。同期のかわいい新入社員も人事部長の隣でずっとお酌していた。

こういうスタンスでいると、相手が社長だろうが部長だろうが、接し方が誰でも変わらなくなる。なぜなら部長も社長も「仲間」だからだ。さすがにこれを聞いたら怒るだろうなあということも、失礼のない話し方で聞いてしまう。


高知県に住み生きている人が「仲間」


今はまだ規模小さいローカルウェブメディアの編集長という立場なので、私の仲間は「高知県に住んでいる人」という風に設定をしている。だから、相手が市議だろうが、年商10億の社長だろうが関係ない。同じ仲間だ。

そんな誰とでも話すことができるようになったきっかけを作れた中学生時代に感謝をしたいと思っている。とてもラッキーなことだ。

こんな私だが、いろんな失敗を重ねていくだろう。

しかし、1人でも多くの目立たない人と一緒に泣いて笑って歩んでいきたいと思う。

1人で見る成功した風景はつまらない。

みんなで見たい。

みんなで振り返りたい。

ただそれだけ。

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