本を読むということ

気づけば6年以上、本と対話してきたと思う。

まだまだ大したことないのだけれど、自分にとって読むという行為は結構人生の中で、重要な気がしているので言語にしてみる。

一言で言えば、本や情報に触れることで、

自分が知らない事実や情報に出会う=明らかに違った自分になれる

だから、情報を知った自分と知らなかった自分との違いを楽しんでいるのだと思う。


知るとは、自分の海を広げる行為

「井の中の蛙、大海の広さを知らず」に抗う行為が読書だと思う。

読めば読むほど、知れば知るほど、「知」は深く広く、時間軸も遠大だ。

「知る」とは、自身の知らなさのレベルの解像度をあげることだ。知れば知るほど、到達不能をみずから証明していくことだ。それを無知の知と呼ぶのだろう。

 無知の知=「自分は一滴しか知らないが、その一滴が海のものだと知った状態」

読書は知の自由形水泳。自分なりの乗り方や泳ぎ方でいい。

そして、「知る」と「わかる」が違うように、海が「広がる」ことと「泳げる」ことは違うのだ。

やばい超大作になっちゃいそう。本筋から外れるので、ここまで。



さて、本を読むことについてに戻る。

知るというのは、面白い。こんな話と出会った。

千利休が堺商人から「茶の極意を教えてくれ」とせがまれる。
「一言でいうのは、これはなかなか難しい」と利休。
「どうしても、教えて欲しいんだ」と商人。
利休は仕方がないと折れて、「まずは炭火はお湯の沸く程度にしなさい。お湯は飲みやすいように熱からず、ぬるからず、夏は涼しげに、冬はいかにも暖かく、花は野の花のごとく生け、刻限は早め、早めにして、雨降らずとも雨具の用意をし、お客の心を心とするのです」
これを聞いた商人は「なんだ、ぜんぶ当たり前のことじゃないですか」
利休は静かに「その当たり前のことがいつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう」と。
ー『安岡正篤 中村天風の人望学』より

読まなければ、決して知り得なかった情報と出会えることが読書の楽しみだ。

ビジネスシーンで言われる「アウトプットイメージをもって読め」という考え方は、おそらく「自分なりの言葉にしてみることを通して「わかる」段階にもっていけ」というメッセージだろう。

それもそれで正解だと思う。

しかし、そもそも「知る」という行為に目的や成果を紐づけるのは、なんだか窮屈な印象だ。

もっと知的好奇心に基づいた人間的で単純な行為が「知る・本を読む」ことなんだと思う。


まとまらねー。笑



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たける

ボディメイクやコーチングの内容について発信していきます。 読書と筋トレが趣味です。
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