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自動販売機化する社会の先へ

前回、うしろめたさを取り戻すために
どうすればいいかと問いかけ締めくくった。

少し遠回りをしてから、この問題に取り組むとしよう。

その方がきっと楽しい。

金融の力と内部収益率。そして心は無くなった。

金融の力について著者がベンチャーキャピタルで働いていた時の体験をもとに書かれている。

事業を行い、資金繰りの必要性にかられると、様々な人やシステムから資金調達するので利害関係者が増える。

すると・・・

物事の優先順位が変わってくる。成果指標の1つであり、事業継続の手段であったところの売り上げ・利益が、気がつくと目的であり目標になってきてしまうのだ。
          ー「ゆっくり、いそげ」第3章 p83よりー

その結末に加担している内部収益率の計算式が次の式である。

成果=利益/投下資本 x 時間

内部収益率を算出するこの計算式の発想は「同じものと作り出すなら少しでも時間をかけず、無駄なものを省き、利益を最大化すること

このような発想でお金が運用され、仕事の現場までこの発想になる

飲食業はファストフード化し、手間暇かけた食べ物は贅沢品になり、手のかかる無農薬の少し歪なお野菜が、大量の農薬使用した綺麗な野菜に取って代わられる。

誰かが悪いわけではない。みんながそれぞれのルールに従い、システムを動かした結果、誰も望まない結果を生み出している。

さて、どうすればいいのか?

かっこうを追い出せ。GDPを成長させる逆行した仮説

ケイトラワースという経済学者が著した「ドーナツ経済学が世界を救う」という本がある。

この本は持続可能な経済のモデルとして「ドーナツ型の経済」を提案している。
※この本についてはまた機会を改めて熱く熱く語ることにしたい。

同書の中でGDPがいつの間にか目的化していることを事例やデータから示しており、そのGDPが経済の目的なっていく様子をカッコウの「托卵」をモチーフに説明している。

「托卵」とは他の鳥の巣に自分の卵を産み、他の親鳥に子どもを育てさせる。子どもは子どもで他の雛鳥より早く生まれ、その雛鳥を追い出す。

らしい・・・。こわ。

ケイトラワースが投げかけているのは、僕たちが育てたのは幸せや豊かさじゃなくてGDPという数値だった。

今やその数値がこれ以上成長しないところまできているのを認められない。托卵された卵から生まれた存在だとしても手塩にかけて育てたことは間違いないからだ。

では経済成長の目的に何を入れるべきなんだろうか?

ケイトラワースは「人類の持続的繁栄」と言った。もちろん、素晴らしい目的だ。それに加えて、僕はあえて古橋説を推したい。

古橋説を巡って

「ゆっくり、いそげ」第2章で古橋くんが登場する。彼は影山さんに経済成長の仕組みを語る。

「ぼくが影山さんに何か贈り物をするじゃないですか。で、影山さんがそれをいいなあと思うとしますよね。そしたら贈られたものよりも何かいいものを返したいなと思うことってきっとあるでしょう。」
「うん。そうかもしれんね。」
「で、そのお返しをぼくが受け取ったら、今度はぼくがまた、もっといいものでお返ししなきゃって思うじゃないですか。これを続けていったら経済ってどんどん成長していくと思うんですよね。」
          ー「ゆっくり、いそげ」第2章 p64 ー

古橋説が実現するのはとても素敵なことかもしれない。

ただし、今のままではやってこない。なぜなら古橋説を駆動させる経済システムのエネルギーは「健全な負債感」だ。

機械化が進み、自分のために仕事をしてくれた人の顔がわからない現代の市場取引において「健全な負債感」が顔をのぞかせることは少ない。

例えば、ネットで買い物し、商品を駅のロッカーで受け取った場合、我々の買い物は全て機械的に行われる作業になる。

この状態で誰かに「ありがたい」と感じることは難しい。ましてや誰かの仕事に感謝しようにも誰に感謝していいやらわからない。そんなある種の「自動販売機化」が進む社会において顔の見える相手から価値を受け取るのは難しい。

そこで僕は意識的に相手の顔を見にいくことを大切にしたい。

何が問われているのか? ー持続可能な経済に向かうには?ー

「特定多数経済」という言葉が「ゆっくり、いそげ」で述べられている。

特定多数経済とは・・・
グローバル経済が、市場を媒介として、「不特定多数」の参加者間での価値の交換を可能とするシステムであるとするならば、それに対して、同じように市場を媒介としながらも、「特定多数」の参加者間での価値の交換を可能にするようなローカルシステム
          ー「ゆっくり、いそげ」第1章 p28よりー

「特定多数経済」について影山さんは3000人くらいがちょうどいいのではないかと書いている。もちろん、商売の形態によるだろう。

この「特定多数経済」に加えて、僕が提案したいのは「自分が望んでいる経済圏をデザインする」ことだ。

いうまでもなく、仕入れを行い、販売をしているような全ての事業者は意識してなくても自らの経済圏をしっかり持っている。

問われているのは「あなたの経済圏に「意志」はあるか?」ということだと僕は思う。

前述した内部収益率に従い、経済圏を作ると、その経済の目標はGDPになってしまう。そこで、まずは創りたい社会を明確にし、それを一緒に実現したいと考える人や事業者を選ぶ。

そして、その人たちと話し合い、共にその社会の実現に向け、良い仕事をすることで「顔」が見え「健全な負債感」を渡すことができる。そんな経済圏を持てると自分たちの生活を守りながら、実現したい未来を実現できる経済が生まれる。

これは事業者目線での話だが、消費就く仕事によって個人として関わる経済圏を選ぶことができる。

そして、SNSは消費者とか事業者の立場を超え、繋がり、経済圏の構築を容易にしている。流通や市場を共有する目的のあるコミュニティにすることで、古橋説は実現できるかもしれない。

「いやいや、荒川さん、前回の記事と矛盾していますよ」とよく読んでくださった方の中にはこのように思う方もいるかもしれない。

僕は前回、コミュニティが市場化されたことを問題視した。しかし、今は市場をコミュニティ化する「ニュアンス」のことを言っている。

僕は市場かコミュニティの二元論で考えたくはなくて、そのグレーゾーンを広げることを提案したい。

そのようなグレーゾーンを僕は「意志のある経済」と呼びたい。

その「意志」は運動体として経済的な豊かさを維持しながら、社会で失われつつある、伝統や産業、コミュニティなど、豊かな社会を守り、形創るものとして提案したい。

理想郷すぎるだろうか?

不可能ではないと思っている。ただし条件がある。

それは次回考えよう。


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