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第14話 星落ちてなお

とうとう、兼家の退場しました
兼家「今日は、気分が良いのでお前たちを呼んだ。出家いたす。
   望み通り関白になったが、明日それを辞し髪を下す。
   儂の後は、道隆。お前が継げ」
人によるのだろうけど、昔からしっかり終活してたんですよね
昔以上に複雑な現代ですので、いつ書き換えてもいいのです
年齢は関係なく銀行や生命保険等だけでも終活はしておきましょうね
一応、アタクシ「終活カウンセラー」もやってます

さて、まひろは庶民の女の子「たね」に文字を教えていました
覚えが良い子だったのか、
まひろ「賢いのね、たねは。教えた甲斐があったわ」と
褒めています
まひろ「じゃっ、帰ったらととさまとかかさまに名前書いて見せてあげて
    じゃぁ、また明日」
まひろは、良かれと思いたねに文字を教えていました
たねが帰った後に桔梗の訪問を受けた桔梗にも
桔梗 「(驚いた顔をしながら)あのような下々の子に教えているの?」
まひろ「文字を知らないためにひどい目に合う人もおりますので」
桔梗 「なんと物好きな・・・」
物好きなと言われています
まひろは文字を知っていることで多くの良い出来事を経験しているので、
文字を覚えることで得することがあることを知っていました
だからこそ、まひろの価値観からの思い付きでたねに文字を教えています

しかし、たねの親からみたらどうでしょうか?
文字を知らなくても、毎日畑を耕し日々の暮らしを成り立たせていることで
生きてきた親は文字を知っていてもご飯の食べ方を知らないのですよ

だから、たねの父親は
たつじ「あんたがうちの子に文字を教えているおなごかい!
    余計なことはやめてくれ!うちの子は一生畑を耕して死ぬんだ。
    文字なんかいらね。おれら、あんたお偉方の慰めもんじゃねぇ!」
怒ってしまうのでした
つまり、たねの父親のたちには「お偉方の暇つぶしにバカにされた」と
感じたのではないのでしょうか?

自分の価値観で「良かれ」と思って「~してあげた」ことが、
相手には「バカにされた」と感じてしまうことは良くあることでは
ありませんか?
この時の自分の価値観から出てくる「~してあげる」という考え方は、
文字にするとわかりやすいのですが、とても上から目線で押しつけがましい
ように感じるのです
また、「私がやらなくっちゃっ!」と正義感という価値観から周囲に協力を求める時も「私が」が強いと周囲の人は、振り回された感じがして、
飽きあきしてしまいます

発想は自分の価値観からだったとしても、理想を掲げすぎるのではなく、
周囲に投げかけ相手の立場に立った意見交換から始めてみてはどうかしら?
そのように思います


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