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第16話 華の影

「香炉峰の雪はいかがであろうか」と問いかけ、
納言が御簾を上げるシーンが描かれました。
知識がないと全くわからないし、清少納言がなぜ御簾を上げたのか?
知らなかったらなぞな行動ですよね
最近になるのかな?知り合いに子どもが勉強する意味を聞いた時に
「騙されないために学ぶ」と言われたのですが、
それは、生きていく中で最低ラインなのかもしれません

さて、冒頭にあったさわさんについて考えてみたいと思います
もちろん、この原因は全て道綱です
道綱は、父、藤原兼家と妾であった蜻蛉日記の作者の藤原寧子を母に
持つ息子ですが、上地雄輔さんがとても素晴らしい演技をしてくれて
いるので憎めない存在なのですが、今回の原因は道綱です
石山寺でまひろと間違えてさわの寝床に入った道綱は、
間違えたとわかると言い訳をして逃げだしたのが前回の話です
石山寺からの帰路でさわは、まひろに向けて感情を爆発させてしまいます

さわ 「私には才気もなく、殿御を引き付ける魅力もなく、
   家とて居場所がなく、もう死んでしまいたい」
驚いたまひろは走り出すさわを追いかける
まひろ「何があったの?」
さわ 「何があった?蜻蛉日記の話の時私をのけ者にしたでしょう!
    道綱さまも私ではなくまひろさまが欲しかったのです
    まひろさまは、私の味方だと思って信じておりましたけど、
    それも違いました。私のことなんかどうでもいいのです。
    そうよ、私は家でどうでもいい子で、石山寺ではどうでも
    いい女だった。私なんか生きている甲斐もない
    どうでもいい人なのです。
    これ以上私をみじめにさせないでください!ほっていて!」

蜻蛉日記でさわをのけ者にしたつもりのないまひろは驚きます
道綱が欲しかったのがまひろだったとしても、まひろには関係ありません
さわの家でどうでもいい子と思われているのはまひろにはわかりません
味方だと思っていたのに違いましたと言われても、違うと思ったのは
さわであって、まひろの考えではありません
すべて、さわの理不尽なまひろに対しての八つ当たりです
もっとも、ドラマなので胸の内を全て言ってくれるところが
非常にありがたいのですが、ただの八つ当たりとみていいものでしょうか?

ここまで、感情を爆発させてしまうのはさわが感情を
整理できていないだけなのです
整理できないから問題解決をすることが出来ず、
八つ当たりをして余計にこじらせてしまっている状態になっています

まず、蜻蛉日記でのけ者にされたことは、自分が読んでないから
話についていけなかっただけで疎外感を感じたのですよね
そして、道綱に間違えられ拒まれて虚しさを感じたようですね
最後に家でも自分の存在が疎ましく思われていることが辛いのですよね
と、私は思いました
疎外感、虚しさ、辛いと言った感情を持ちため込んだ結果、
八つ当たりになってしまいました

交流分析では、ニセの感情と本物の感情があると言われています
ニセの感情は、とっさに出てくる感情でため込みやすいし
なじみがあるので外にも出しやすい傾向があります
なぜなら、幼い頃からなじんでいて認めてもらえていた感情なのです
では、何のための本物の感情がありニセの感情があるのか?

本物の感情は問題解決に必要な感情です
しかし、本物の感情を出してみたら養育者や周囲の大人に拒まれた
経験があり、では、どんな感情表現なら受け入れてもらえるのか?
いくつも試してみたら「当たった!」というものを大人になっても
通用すると思い使い続けてしまうことがあります
そして、ニセの感情は本物の感情を隠して押し込めてしまいます
だから、何も解決することが出来なくなってしまうのです

さわは、たくさんのニセの感情をため込んで整理がつかなくなり、
本物の感情から目をそむけた結果「怒る」という八つ当たりをして、
解決しようとしました
解決できず逃げ出すことしかできませんでしたよね
あなたの本物の感情は何でしょうね



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