見出し画像

【どうぜん和尚のアレクサンダー・テクニークWS】参加レポート・感想

浄土真宗本願寺派 西念寺(岡林俊希ご住職)にて行われた、澤中道全和尚のご指導によるアレクサンダー・テクニークのワークショップに参加してきました(2018年11月30日)。

〔リフレーミングとソーシャル・ビュー〕
前半で主に実修したのは、「ソーシャル・ビュー」と呼ばれるワーク。

3人一組で行ない、1人はアイマスクをして「目が見えない人」の役。あとの「目が見える」2人で、ある1枚の絵あるいは写真についての情報を、目が見えない人へ提供する。

このワークで特徴的なのは、目の見える2人が目の見えない人に向かって、絵に描かれているものについての"客観的な情報"を伝えるだけではなく、

・その絵を見たときにどんな感情が起こってくるか
・どんな解釈が成り立ちうるか
・その絵画や写真に込められたメッセージは何か

…といった「主観」を提示することと、目が見えない人は見える人に対して「質問をしてもよい」ということ。

人間が外界の情報を得る際には、その9割近くを視覚に依っている、といわれている。一方、目が見えない人は視覚を使うことができないので、目以外の様々な感覚器官("こころ"も含む)を駆使して「見ている」。

見えない人と見える人が言葉で対話することで、「見る」という営みが再構成(リフレーミング)されて、お互いが見ている世界が更新されていくのを垣間見ることができました。

〔地図は現地ではない〕
後半では、「身体の実際」を自分で触れながら、あるいは道全さんに触れてもらいながら体験すると、身体感覚にどのような違いが出てくるかを味わいました。

例えば、目でものを見るときには両目の視線が見たい対象物へ"平行に"のびているように思えますが、眼窩(眼球が納められる頭蓋骨のくぼみ)の縁を手でなぞってみると、右目はより右側へ、左目はより左側へ、私たちが普段イメージしている以上に目は「外側へチルト(Tilt)している」のを体験できます。そうすると、普段の見え方よりも周辺視野がより自然に目に入ってくる、LookでもSeeでもWatchでもないものの見え方、「観」の見え方になったような感じがします。

また、仰向けに寝て首の力を可能な限り抜いて、頭の重さを道全さんの手に預けて委ねていくと、枕を当てなくても首が楽に仰向けのままでいることができます。
私も寝るときの枕は高めのものが好きで、低いと首の置きどころが何だか定まらない感じがしてきます。でもこれは、首の心地良さを「イメージでつくり込んでしまっている」ということなのかもしれません。

言葉や、言葉による思考によってつくられる自己認識や自己イメージという「地図」は、身体の構造の実際という「現地」そのものではないし、地図を現物と思い込み過ぎてしまうと、現地との間にかなりのズレを生じてしまう…。

今回のワークショップの中で道全さんが引用した、

「地図は現地ではない」


という言葉は、言語が現実を抽象化する過程を自覚することを促す「一般意味論」を構築した、20世紀前半のポーランドの独立研究者、A.コージブスキーによるもの。

実はこの言葉は、私はこっそり黙っていたけれど、今年の藤田一照さんの仏教塾「移動する学林」のテキストとして読んだ「青虫は一度溶けて蝶になる(通称”青虫本”)」にも引用されていたのでした。

私にとっては「やぁ、またお会いしましたね」のこの言葉は、青虫本では、

「言語で表象される以外のところにも現実(Real)は広大に広がっていることに思いを致して、その上で言葉の持つ限界をよく吟味して、便利な道具である言葉を使いこなせるようになれば、"人生の主人公"になれる」

という文脈で引用されていたのでした。

〔言葉は「事の端」〕
今年から私が本格的に取り組むようになった中国武術「韓氏意拳」の光岡英稔導師の数々の教えのなかでも、

「人間やあらゆる事物は"もの(実体)"ではなく「こと(事)」とその連続で出来ていて、言葉はその一部分、「事の端」しか示すことができない」

という教えがとても印象深く心に残っています。

「事のReal」(…といってしまうと表現のダブりになってしまうかも?)の体験・体認を経由して一回まわってくると、言葉の使い方もまたアップデートされてくるのかもしれませんね。

仏教塾での学び、韓氏意拳のお稽古での学びが、今回の道全さんのWSにも合流して、また一段と学びが深まった体験でした。

【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)