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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/12)学習ノート④

(ここまでの12月一照塾)
冒頭の約30分での一照さんのearly bird talkは、学習ノート①にて。
11月からのhomeworkをシェアするグループワーク「さすが道元、よく言った!のワーク」前半部分は、学習ノート②にて。
グループワーク「さすが道元、よく言った!」後半部分は、学習ノート③をご覧ください。

この学習ノート④では、グループワークで触れなかった論点についての一照さんの講読について振り返っていきます。

1. なぜ知解の路がいけないのか

意根を坐断して知解の路に向かわざらしむなり。是れ乃ち初心を誘引するの方便なり。
(心のはたらきを止めて、仏法を知的に理解する方へ向かわせないこと、これがまさに初心者を仏道に誘引する手立てである)

なぜ、知解の路がいけないのか?
僕らはほとんど"知解の路で飯食ってる"というのか...知解の路しか知らない。「知解の路の何がどう問題なのか」を考えないといけない。

知解の路
 ↕
〇〇の道

知解の路に対照させている「○○の道」には、どういう言葉が入るでしょうか?

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「知解の路がなぜ、どのように問題なのか」を考えれば、それを反転させることで「どのような道が、なぜ必要なのか」が浮かび上がってきます。これについて、この時間では考えてみたいと思います。

§

2. 現成公案

それを考えるのに参考になるのが、『正法眼蔵』の「現成公案」巻です。

非常に中身が濃く、推敲に推敲を重ねて練り込まれた緊密な文体で書かれた巻で、道元禅師が自ら編纂したといわれている「七十五巻本」のいちばん最初に置かれています。「道元禅入門」という体裁を成している巻だと思います。

「現成公案」については、こういう本も出ていますが…

余計絶望しそうな気がしますけど(笑)。
悩んでいる頭をそっちへ振り向けろという意味なら分からなくもないですけどね。

「現成公案」の中に、こういう言葉があります。

魚の、水を行に、ゆけども水のきはなく、
鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。

道元さんは魚や鳥の話をしたいのではなくて、僕らの修行の話をしているのですが、そのメタファーとして「魚と水」「鳥と空」を喩えとして出しているのです。この喩えは『正法眼蔵』の他の巻にもあって、道元さんが好んで用いるメタファーです。

しかあれども、魚・鳥、いまだむかしよりみず・そらをはなれず。

魚は生まれた時から死ぬまで、水の中を自由自在に泳ぎ回っていて、鳥も生まれた時から死ぬまで空を自由に飛んでいて、魚や鳥は水や空から離れたことがない。
これが「仏道の中に我々がいる」ことの絵画的な、あるいは詩的な表現になっているのではないかと思います。

「魚は絶対に水から離れたことがない」「鳥も絶対に空から離れたことがない」ことと、僕らが仏道の中を修行しているのと同じ構図になっているというわけです。

鳥、もしそらをいづれば、たちまちに死す。
魚、もし水をいづれば、たちまちに死す。
以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。
以鳥爲命あり、以魚爲命あり。
以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。

鳥は空を命としていて、鳥から空を切り離したら、鳥は死んでしまう。
魚も水を命としていて、魚から水を切り離したら、魚は死んでしまう。

知解の路というのは、「概念的把握」です。僕らが日本語をマスターする過程で、自分の中に様々な概念の枠のようなものを形成することです。学校へ行くと、概念をさらに細かく学んでいきます。

幼稚園に行くまでの年頃では、そんなに多くの概念を必要としません。大体は家の周りにあるもので事足りてしまうので、ある意味ネコでも通じる。

うちのネコのテラちゃんが、僕のところへ来てある表情で「ニャー」と言うと、「あ、ごはんね。」って分かります。
僕がそれを無視していると、ずーっとニャーニャー言ってるわけ。そこで、「分かった分かった。ごはん?」と言うと「ニャー!」と言って、席を立った僕を先導していって、エサが入っている台所の引き出しのところで待っているのです。
テラと僕の長年のつき合いで、あまり多くの語彙がなくてもコミュニケーションができているわけです。

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それが、一旦家から出て、知らない世界(客観的世界)に出ていくとそれでは済まなくなって、客観的世界の中で細かい情報のやり取りや、指揮命令や操作をする時には、「広辞苑」のような分厚い辞書になるくらいの、なるべくきめ細かい名前や意味の体系が必要になってきます。

それプラス、さらにそれぞれの専門分野では医学事典や哲学事典も参照しなければいけない…という具合に、そのくらい細かい概念の網の目で世界を分別して理解して、その理解に基づいて自分の都合のいいように世界をさらに構成しようとするというのも、ひとつの道(知解の路)であるわけです。

§

3. 知解の路は人間の定向進化か

サーベルタイガーやマンモスの長い牙は、ある程度までは有用な武器としてその種を特徴づけるものだったのですが、その進化が止まらなくなってしまい、エサが食べられなくなるくらいに、あるいは自分の身体に突き刺さるほどに大きくなってしまって、種の絶滅を早める原因のひとつになってしまった…という説があります。

人間の知解の路も、自らを滅ぼすところまで行き着くかもしれません。
『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』『21 Lessons』などを書いたユヴァル・ノア・ハラリさんも、「人間は虚構を作ることで生き延びてきたが、虚構につぶされる場合もある」というようなことを書いています。

仏道は「生(ナマ)の世界」の話なのですが、知解の路は虚構の世界。人間の脳が定向進化を遂げて、「虚構が頭蓋に突き刺さる」というのか…自分を害するところまで来てはいないだろうか?ということです。

人間は生存方略(survival strategy)として虚構の世界を作り上げてきた。宗教もその一つだったわけですが、その生存方略も行き過ぎると、死滅への道を歩むことになる…死滅とまではいかなくとも、知解の路を歩むことは苦しみの生産と引き換えになってはいないだろうか?

仏教はそれへの反省から来ていて、「知解の路はなぜ、どのように問題なのか?」に対するひとつの答えは、いまお話したようなことから考えることができると思います。

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§

4. 魚って何ですか?

「魚って何ですか?絵に描いてください」と言われたら、例えばさかなクンだったら「ギョギョギョ!」なんて言いながらその魚の特徴が分かるように絵を描くと思います。

でも、水は描かないですよね。
僕らは「水は魚ではない、水と魚はそれぞれ別のもの」と思ってるから。「魚の外側にある液体が水です」、そういうのが知解の路です。

『正法眼蔵』の別の巻では、魚と水、鳥と空についてこういう言い方をしています。

水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり。
空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し。

(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻)

「魚は水の中をスイスイ泳ぐことで、魚に似て見えるのだ」と言っています。これはおもしろい言い方ですね。
この「行いて」の中には、"魚という生命をしている、行じている"というニュアンスがあります。そして行じるには、環境と一体であることが必要です。なので、「これ」が魚なんです。

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「これ」といっても、絵に描いているので、まだまだ知解の路からは離れてないんですよね。「魚行いて魚に似たり」としか言えない。
「似たり」というのは"近似している"ということで「生(ナマ)ではない」という意味に受け取っています。

魚行いて魚に似たり。
鳥飛んで鳥の如し。
我々は仏道を行じて、我々に似たり。

ということになります。

いのちを、いのちのままに受け取って、それを行じていくというのが「直下承当」です。知解の路では、何かが媒介になって間接的な接触ですし、価値評価が入ってくるのですが、僕らは社会生活を送っている以上、知解の路をやめるわけにはいかなくて、その道で勝者になれとは言いませんが、知解の路もちゃんとできたほうがいい。

ですが、それは「知解である」と知っておかなければいけない。


◆ 現地と地図
直下承当は「現地」です。"現"は「現物、現ナマ」の現ですね。一方、知解というのは「図」なんです。ナマと図の違いを認識しておかなくてはいけない。
先ほどの「第五図」でいうと、アタマで展開されているのが「図」です。その外側にある、身体のかたちに表されているものが「ナマ」です。

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「図」だけでもダメだし、「ナマ」だけでもダメということ。
しかもこれは循環していて、図とナマ、知解と直下承当は同時に起きているので、それぞれ含みあいの関係で考える必要があります。

それで、実際にはどうするのかというと、僕らは既に知解の路の中にいて、この道しかないかのように生きているので、まずそこから出なければいけない。それが坐禅のひとつの側面なのです。

§

5. 解行を休すべし

『普勧坐禅儀』には、

須らく言を尋ね語を逐うの解行を休すべし。

と書いてあります。「尋言逐語」という四字熟語にもなっています。

「言を尋ね」、ある言葉に関して「それはどういう意味ですか?どんな意義があるんですか?」と意味を追っかけたり、あるいは言葉に導かれていくような「解行」、すなわち知解の路を「休すべし」、一旦休めなさいと書いてあります。知解の路をdelete、消しなさい無くしなさいではなくて「休めなさい」。「知解の路は、休めることができる」ということをまず知らなければいけない。

第四図的な世界から見たら、知解の路を休めることの意味や価値が分かりません。なぜかというと、価値というのは"アタマの展開する世界"にしかないから。「休すべし」というのは、価値の世界から出るということになります。『普勧坐禅儀』は、それを普く勧めているのです。

坐禅のあの姿勢をしたら、「解行を休す」が実現しているということです。言を尋ねたり語を逐ったりするための足も、手も、口も、アタマも封じられているのが坐禅の姿勢ですから、坐禅をしたら、自動的に、即座に、知解の路を走り回っているのが一時休止するということになります。

そこから「アタマの展開する世界の根本にあるわが生命」を見なさいということです。

「知解の路に帰ってはいけない」とは書いていない。「休すべし」ですから、ひと休みが終わったらまた帰らなければいけないのですが、それは、"わが生命"を知った人が帰っていくということです。"アタマの展開する世界"にいる人は、"わが生命"を知らずに知解の路を汲々として走り回っているのですが、"わが生命"に足を置いた人がアタマの世界にひとりいるだけで、状況は変わってきます。

§

6. ひとりのマインドフルな人の存在

ティク・ナット・ハンさんは、よく「ボートピープル」の喩えを引き合いに出して話します。ベトナム戦争の戦火を逃れた人たちが海に出るのですが、海賊に襲われて略奪されたり女性はレイプされたりということが実際に起きているし、海に出たのはいいけれど食料がなかったり嵐に遭って船が沈没したりして、たくさんの人が海で亡くなっています。

そんな船の上でボートピープルがパニックになって騒いでいる中に、坐禅している人、あるいはマインドフルな人が一人いると、その人の力によって難を逃れた船もあるし、難を逃れる可能性は高まるだろう…という話です。

パニクってても、状況を好転させることにはまったく寄与しないわけです。
英語の表現でも「あなたは問題の一部ですか、それとも解決の一部ですか?」というのがあります。

嵐で揺れ動いている船の上でキャーキャー言って「どうしようどうしよう」と騒いでいるのは「part of the problem」ですが、そこで皆を静めるために何ができるか考える…というのが「part of the solution」です。
難破船の中のパニクっている人が想像もできないような存在のしかたをした人が一人いると、その人が風穴になって、問題が悪循環を起こしているところに、別な回路が開く可能性がある。

古今の英雄譚にも、そういう話があります。
日本では『古事記』にも出てくるような、ナントカ姫が荒れる海を鎮めるために人身御供になる伝説がありますよね、あれって何でしたっけ?

(塾生aさんコメント)
山口県に「般若姫伝説」があります。


ティク・ナット・ハンさんが話すボートピープルの例え話は、人身御供というよりはもっと積極的な影響を及ぼしていますよね。
難破船の人たちは皆、自分の命を守ろうとして汲々としているのに、命を捨てようとするなんて、パニクっている人たちとは全く逆の行動パターンですが、それがむかしの人のpart of the problemからpart of the solutionへシフトするときの一つの方法だったのかもしれませんね。

それで自然の天候が変わったりはしないので、もちろんナンセンスだとは思いますが、たぶんそれでコミュニティの中の何かが変わるということは、もしかしたらあるのかもしれません。あまりおススメはできない方法ですが…。


『風の谷のナウシカ』
の映画版でも、眼を赤い攻撃色にして怒り狂って暴走する王蟲の群れの中にナウシカが下りていって…という場面がありましたよね。あれも人身御供の話の一種ですが、あの話は人身御供では終わらなくて、ナウシカのあの行動がpart of the solutionになったわけです。

大ババ様が、

「なんといういたわりと友愛じゃ。王蟲が心を開いておる!」

と言うのですが、ナウシカの行動に対して、王蟲が赤い攻撃色から平和な青い眼に変えて応えてくれたわけです。
単なる人身御供では終わらせなかったところは、さすが宮崎さんだなと思いましたね。

映画版は、話がちょっと単純すぎるというのか…原作を読んだ人は分かると思いますが、原作のほうが「モヤモヤ感」があるというか、単に勧善懲悪的ではないんですけどね。

「モヤモヤしたくないです」って?
ぜひ原作を読んでモヤモヤしてください(笑)。

え…っと、何の話をしていたんでしたっけ?


魚と水、鳥と空の喩えを出すことで、魚にとっての水、鳥にとっての空に当たるものが仏道である…と、道元禅師は捉えているということですね。
仏道というのは、何か予め決まったルーティンワークとか、ToDoリストの項目ではない。我々を生かしているものを「道」と呼んでいるのです。

§

7. 刻々更新される「際」

魚の、水を行に、ゆけども水のきはなく、
鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。

ここで「際(きは)」というのが出てきていますが、僕らにとっては「仏道のきは」ということになりますが、これは何なのでしょう? 無限なものについて話しているのに、際というのが出てきている。おもしろい表現だと思います。

これは、魚は泳ぐことで際ができるということです。魚がその瞬間に泳いでいるところが際なんです。

魚が水の中を泳いだり、鳥が空を飛んだりしているのは、魚や鳥が水や空の限界を究めようとしているのですが、でも、それは絶対に究められない。というのは、魚や鳥がいまいるところが限界なら、次の瞬間にはもうそれは限界ではなくなるからです。

無限というのはそういう意味で、限界が常に更新されるということです。

魚が水の「際」を行っているというのは、その都度その都度の限界を行っているということになります。魚が泳ぐためにヒレを一回動かしたところ、鳥が飛ぶために翼を一回羽ばたかせたところが終着点であり、同時に出発点でもあるのです。

同様に、僕らの修行もその日その日が終着点だけれども、同時に出発点でもある。そのことを道元さんは、

道は無窮なり。悟りてもなお行道すべし。
(『正法眼蔵随聞記』第六)
すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。
(『辨道話』)

と言っています。

§

8. 行の思想の宝庫

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水・そらをゆかんと擬する鳥・魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。
(『正法眼蔵』「現成公案」巻)

魚や鳥は、既に水や空を行っているのだけれど、「ちょっと待てよ、この水はどれくらい深いんだろう?この空はどのくらい高いんだろう?」と、まずそれを究めてから、全部分かってから泳ごう(飛ぼう)とする鳥や魚がいたとしたら、それが知解の路です。

先日の「禅僧が読む教行信証」の講義のIcebreakに行った"脊椎行気法"のワークの時に、野口晴哉さんの「人間は一日のうちで何秒間は、こういう訳の分からないことをする必要がある」という言葉を紹介しましたけれども、「分かったことだけで人生を生きようとしても、人生ではそれでは済まないことがある」という言い方ですが、道元さんのこの言葉はそれと似ていると思います。

「水や空を究めてから泳ごう飛ぼうとする魚や鳥がもしいたとしたら、泳げないよ、飛べないよ」ということです。

僕らも、「仏道の全てが分かってから修行を始めます」ではなくて、仏道はもう始まっている。それが、先ほど出てきた「脚跟下」です。その脚跟下の自己を習うのが仏道であるというわけです。

「行」の本質について、ここまで哲学的に広く深く掘り下げて考えた人は、他にはいないと思います。東洋における文化的な財産の一つには、この「行の思想」があると思いますが、道元さんの考えたことはその宝庫に近いのではないでしょうか。
他には空海さんなどもそうだと思いますが、道元さんにとってみれば、そういう行の本質が仏教だよということで、その見本はお釈迦さまだというのは道元さん的にははっきりしている。
僕もその辺は非常に面白くて、もっと知りたいと思っています。

§

9. 我がすみなれし京

道元禅師が詠んだ「傘松道詠(さんしょうどうえい)」という和歌集があります。

道元さんが詠んだものではないものも「伝・道元作」みたいな感じで混ざっているらしいのですが、その中に、こういう歌があります。

尋ね入る
みやまの奥の里ぞもと
我がすみなれし
京なりけり

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この歌には、「父母所生身即証大覚位」という題がついています。
「父母所生身」というのは、"お父さんとお母さんの間に人間の身体として生まれた身"、つまり我々の肉体のことですが、

父母から生まれた我々の肉体が、「大覚位」偉大な目覚め・悟りを直ちに実証している…ということです。

『正法眼蔵』には、人間の肉体のことを「臭皮袋(しゅうひたい)」と言う表現が出てきますが、

転疏転遠の臭皮袋おもはくは、仏光も自己光明も、赤白青黄にし
て、火光・水光のごとく、珠光・玉光のごとく、龍天の光のごと
く、日月の光のごとくなるべしと見解す。

(『正法眼蔵』「光明」巻)

様々な宗教では身体は不浄なものとする観方が多いです。なぜかというと、煩悩というのはこの身体から立ち上がってきて、身体で感じるものだからです。例えば「怒り」でも、胸がムカムカしたり頭が熱くなったりして、この身体から煩悩が生まれると感じると、この身体のせいで私は汚れているのだというような考えが出てきます。


◆ 参加観察体験
僕は高校生の頃に、駅にいたら見知らぬ男性が僕のところに寄ってきて、「あなた、宗教に興味はありますか? 聖書はどうですか?」というので、「ええ、興味ありますね!聖書も読んでますよ」と言ったら、「今度の週末に、聖書の勉強会がありますから、一緒に来ませんか?」と言うから、退屈しのぎのつもりで行ったことがありました。

今にして思えば、それは某カルト集団の研修会で、様々な洗脳のテクニックを使っていました。
まずは「疲れさせる」。朝早くに起こして、山の中をジョギングさせるのですね。僕は体力があったのであまり疲れませんでしたが。
食事もマトモなものを食べさせないし、暗い中でロウソクをつけて話をしていて、後ろの壁には教祖さまのでっかい写真がドーンと飾ってありました。

その暗がりの中で、説教をする人が「我々は罪人である」という話を延々とします。「自分の胸に手を当てて考えてください」というと、皆が胸に手を当てる。「懺悔しましょう」というと、皆で両手を組んで祈る。

長いこと下を向かせるのですが、そうしているうちに涙が出てくる。「涙が出てきたでしょう?」と言うけど、「それ、ただの生理現象でしょう?」と思ったので、そのあたりから「ああ、これがいわゆる洗脳だな」と気がついたので、文化人類学のフィールドワークにある「参加観察」をしてやろうと思って説教の様子を見ていたら、何か思い当たる節のある善良でナイーブな人などは、ほんとうに泣き出す人もいました。あんな風なムードで持っていかれたら無理もないことですけど。

僕の近くにいた男性は、「僕は汚れている!こんな身体は嫌だ!」と言って服を脱ぎ始めました。「汚れている…と言ったって、服を脱いでどうするの?」と思いましたが、服を脱いで何かしたかったのでしょうね。
別のところでは、若い女性が「花が私を憐れんで泣いている…」と言っていて、そのそばには花が飾られていました。「いろんな風に見える人がいるんだなぁ…」と思ったものでした。

それからかなり後のことですが、オウム真理教の道場へ行った時にも、若い女の子が竹刀で自分の身体をたたいていました。案内してくれた人に「あれは何してるの?」と聞いたら、「カルマを落としています」と言っていました。
「ホコリはあれで落ちるかもしれんけど、あんなことしてカルマが落ちるんですかね?」と聞いちゃったほどでした。


◆ 自分の身体を受け入れられない
僕らは何かと自分の身体に注文つけてるんですよね。なぜかというと、自分ではどうしようもないことを受け入れられないからですね。
僕も、他の人に比べて脚が短いと思っていますが、今は諦めていますけど、若い頃は少年雑誌の裏表紙によく載っている「脚が長くなる」という広告なんかを眺めてましたけどね。

いわゆる"世間"では、身体は必ず評価の対象になる。
僕の娘は日本で生まれて、4か月になった頃にアメリカに連れて行って一緒に住み始めたのですが、"アメリカで女の子を育てる親の必読書だ"といって、当時ベストセラーになっていたこういう本を渡されました。
ファッション雑誌に出ているようなすごいプロポーションをしたモデルさんと自分を引き比べて、"あの人に比べて自分は醜い"と思って自分の身体を傷つけたり、自分を嫌いになるようなことが背景になって心理的な苦しみを経験しているアメリカの思春期の女の子を治療している人の話です。

読んでみて、おもしろいとは思いましたが「そんなものなのかなぁ…」と思っていたのですが、ヴァレー禅堂の坐禅会に来ていた、アメリカでも有名な女子大の学生さんたちに「この本知ってる?」といって見せたら、「私も読みました」という人が多くて、「私も、one of the Opheliasです」という人もいました。
アメリカでは、人の外見についてのプレッシャーがすごく高くて、それに対する反対運動なども起きていて、太った人だけが集まって、「私たちはこの身体でいいんだ!」などとアピールするデモ行進もありました。

最近Facebookを見ていたら、そういうような動画が流れてきました。
公開オーディション番組「America's Got Talent」のオーストラリア版で、10代の女の子たちが肌色の水着かレオタードみたいなのを着て、「私たちの身体を見ろ!」みたいな感じで踊るのですが、バックに流れていた音楽が、

私たちの身体は、誰のためのものではないのだ。
誰かに鑑賞されたり評価されたりするものではないのだ。

…というような内容を歌詞にした歌でした。


…「父母所生身」の話をしていたところでした。
私たちの身体は世間的な価値評価で一喜一憂するというようなチンケなものではなくて、「即証」、媒介なしに直ちに大いなる覚りの位を証明している。
このようなタイトルの下に詠んだ和歌が、

修行して、苦労して入った深い山の奥の里…悟りの境地に到達してみたら、それは私がもともと住んでいた京(みやこ)だったではないか。

というものです。「里」と「京」を対照させているわけですが、自分は京にいて「こんな汚れたところにいてはダメだ」といって深山の奥に尋ね入ったのだけれど、気がついてみたら、もともと住んでいた京だった…ということです。


◆ あの鳥はいつ「青い鳥」になった?
メーテルリンクの童話『青い鳥』もそうでしたよね。
永井均さんは、

「あの鳥は、いつ"青い鳥"に変わったの?」
最初は青くなかったのに、あの童話のストーリーのどこかに、青い鳥に変わった地点があるはずだ。

ということを自分の本に書いています。

(塾生bさんコメント)
青い鳥が見えるようになってから?

そうだね。永井先生はその答えは言ってないけど、「自分の眼が変わった」からですね。そういう意味では、自分の見る目が変わるためには深山に尋ね入らなければいけないということになりますね。

§

10. 自己肯定感をめぐる一照さんと塾生の対話

(塾生bさんコメント)
先ほど一照さんが言った「アメリカ人は外見をすごく気にする」という話に関連して、今の日本も自己肯定感が低い人が多いといわれていますが、理想的なものと自分を比べ過ぎているのではないでしょうか?

「自己肯定感」に関係する現場で仕事している人はいる?
自己肯定感が低い人にはどうやって対応してる?
「承認欲求」とも関係してきますよね。でも、自己肯定感というのは誰かから承認される前に、自分で自分を認めるところから出てくるものなのではないですか?

(塾生aさんコメント)
例えばアスリートの中でも、試合で良い結果が出ていても自己肯定感が低い選手もいれば、成績がよくなくても自己肯定感が高い選手もいるのです。

その結果によって、自己肯定感が大きく変わる選手が圧倒的に多いですね。良い結果が出ていれば自信になるし、結果が出なければ「自分は無価値だ」…という具合に、結果に依存している選手は多いです。

どうやってそれに対応しているかといえば…やはり「プロセスに目を向ける」ことを何度も問いかけていくことですね。
(塾生cさんコメント)
「自己肯定感」という言葉は、私の現場ではあまり使っていませんが、その人の自己肯定感が高いか低いかは、子どもの頃の生育環境にも影響されるし、周囲の人との比較から自己肯定感が上がらない人も多い。

私の対応としては、その人が"何に怯えているのか"、"何が不安なのか"ということに対して、逃げずに向き合うところから自己肯定感を上げていく…ということをしています。
そういうことに向き合うのは確かに難しいですが、中には面白がりながら取り組んでいる人もいます。

「自己肯定感」とか「承認欲求」という言葉は、むかしはなかったですけどね。でもそういう概念を使うことで、今の人たちの行動の底にあるものが分かるようになってきています。

(さらに塾生cさんコメント)
教育の現場が、むかしよりも自由ではなくなってきているかもしれません。親に反抗する子も、昔に比べたら少ないし、子どもごとの個性がデコボコしないようにする傾向が、小学生から大学生にわたって、むかしよりも強くなっているのを感じます。
人を傷つけたくないから、コミュニケーションをとるのにもすごく怯えている。
(塾生aさんコメント)
傷つけたくない…というより、もう既に傷ついているのだと思います。
「あなたは自分のことが好きですか?嫌いですか?」という問いを投げかけた時には、自分のことが嫌いという選手のほうが圧倒的に多い。
(塾生bさんコメント)
あらゆる情報がいっぺんに入ってきて取捨選択ができていない…ということもあるかもしれない。
先ほどの「海は水を辞せず」ではないですが、広い海のようにどんな水も受け入れるのが良いのか、それとも入ってくる水は選ばなければいけないのか…。

〔一照さんコメント〕
「海は海を辞せず」というのがまずベースにあって、水のほうにも「水を辞さない」水があって、それでお互いの関係ができているのだけれど、「海は海を辞せず、水は水を辞せず」というのがないと、海は広がっていかないし、水は枯れてしまう…というような、海と水のうまい調和にならないということですね。

(塾生aさんコメント)
この間、ある女子プロゴルファーが、ちょっとしたことでゴルフ場とトラブルになって、そのことを女子ゴルフ界の大御所のような人がマスコミに話したことで、日本中で大問題になったことがありました。
その選手のことは僕も知っているのですが、ほんとうに心がピュアな人なんです。ただ、最近試合ではいい結果が出ていなかったし、思うようなプレーができていなかった。それで自信を無くしていたし、その問題のことをものすごく後悔して、さらに自分を追い込んでしまうのですが、あまりにも結果重視になり過ぎていて、そういう悪循環から抜け出る方法を知らないのですね。

§

11. Take everything personally

「take ~ personally」という英語表現は、すべてを私中心に解釈するようなマインドセットのことを言っています。
例えば、いま僕が持っているペンが手から落ちたとすると、「誰かが僕を苦しめるためにペンを落としたんだ」というように受け取るわけです。被害妄想の極端なものといってもいいでしょうね。そういう構えでいると、心が休まる暇がないです。

例えば、あそこで桜井さんがだらしない格好で僕の話を聞いていますが、それをpersonallyに受け止めると、「お前、やる気あるのか?俺を無視してるんじゃないか?」となってしまうわけです。
その反対側では、僕の話はそっちのけでスマホで何か調べ物をしている…というように、すべてのことをpersonallyに受け止めていったら、心がもたないですよね。人が話をしていると「僕の悪口を言っている」、少し離れたところにいる人のことを「あの人は私を監視している」というように…。

僕が若い頃に鍼灸の勉強を一緒にしていた人もそういう感じの人でしたが、彼は結局自殺してしまいました。「刑事が僕を追いかけている、いま電柱の向こうに隠れたんだ」というようなことをいつも言っていました。「そんな人いないって!」と僕は言うのですが、ダメだったですね。

(塾生bさん質問)
「art of just listening」についてですが、artというと「~の技術」という訳になることがあると思いますが、その技術というのはツールなのか…どういうふうに理解すればいいでしょうか?

〔一照さん回答〕
技術だったらtechniqueといいますけど、artというのはそれを超えているものだと思います。これは「技芸」と僕は呼んでいて、技術でもあるけど芸術でもあるものです。
僕らのレベルの低い普段の聞きかたではなくて、よく練られたものなのですが、単にテクニックを使っているのではないのです。もっと生き生きとしている。
テクニックだと、決まったことをまた行うという反復があるのだけど、artには反復がなくて、まっさらに新しいものが高い練度でその都度立ち上がってくる…というニュアンスがあると思います。

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「art of receiving」、ものごとをきちんと受け取るには技芸が必要なのです。receiveは僕らも日常的にしているのだけど、それをartにまで高めるには、ある種の訓練が必要だということです。

(塾生aさんコメント)
自分のことを自分でreceiveできていない人が多いと思います。
不安な時に「自分はいま不安だ」となかなか言えないのは、「不安であってはいけない、緊張していてはいけない」とジャッジしているので、receiveするところまでいっていないんですよね。
そういう状況になってくると、receiveする技芸を高めることをひとりでやろうと思っても難しくて、そういう時にはカウンセラーやセラピストと一緒になって、「いま不安に思っている自分」をどう受け止めるかについて取り組むのは、すごく大事なことだと思います。

§

12. 自分が自分でいられるのは愉しいこと

(塾生bさんコメント)
まだ農耕をしていない縄文時代だったら、川の水はありのままに流れているのかもしれないけど、稲作が始まった弥生時代からになると「この水はうちの田んぼのものだ!」と取り合いになってしまいますよね。

〔一照さんコメント〕
人間生活が複雑になってくると、ものごとをきちんと受け止める技芸を高めるのもなかなか難しくなってくるのかもしれないよね。
人がせわしなく動き回り、落ち着いた時間も持てず、むかしのような「存在がそのまま許されているような共同体感覚」が薄れていって、何らかの役割を果たすことへのプレッシャーが強くなっている時代では、自分が自分でいられることが難しい。

自分でいられるのは、ほんとうは愉しいことなんですけどね。

(塾生dさんコメント)
強いプレッシャーの中で自分が自分でいられない人たちの中で、例えば一照さんみたいな人がいたら、良くなっていかないでしょうか?
私も勤め先の会社で、ことさらダメ出しとかをしないで、そういう人たちと一緒にそこにいて共感したりしているのだけど…「良くする方法」がなかなか分からなくて。私としては、一照さんをモデルにしているのですけど。

〔一照さんコメント〕
さっき話した「難破船の中にひとりだけいるマインドフルな人」のようにして、「ああいうあり方でもOKなんだ」と気づいてもらう、というのも、ひとつのやり方かもしれないね。

「自分が自分でいられること」の話をしていて思い出したんだけど、『昴』というマンガがあるのを知ってる?
バレエを題材にしたマンガなんだけど、踊ることにかけては天才的な「昴(スバル)」という女の子が主人公の物語です。

ある時、昴が刑務所で慰問公演をするのですが、すごい入れ墨をした前科何犯の札付きのワルみたいな男が、最初は「ぶっ殺すぞ!もっと股開け!」と言いながら昴のバレエを見てるんだけど、昴がだんだん踊りの自由さと自分らしさのレベルを上げていくので、普段は不自由な刑務所の中に自分の心を押し込めているようにして生きている囚人たちが、昴の自由なダンスを見れば見るほど、普段は見ないようにしている自分たちの不自由さに居たたまれなくなって、

そんなに自由に踊られたら、俺たちの不自由さが耐えられない。
見たくない!もうやめてくれ!

と刑務所中が大騒ぎになってしまう…という場面があります。
彼女のさらに上を行く、プリシラというバレリーナも出てきて……その話をしていくと止まらなくなるので、もう終わりにします(笑)

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……このあと、学習ノート⑤に続きます。


【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)