見出し画像

【山下良道老師 出版記念講演会】レポート・感想

山下良道老師(ワンダルマ仏教僧、鎌倉一法庵住職)のご法話を拝聴させていただきました(2月22日@東別院会館)。

今回のご講演は、良道老師の最新刊、

『「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える』(集英社刊)


の出版を記念して行われたものです。


〔マインドフルネスという"黒船"〕

「日本の仏教に対する一般的な、あるいは初歩的なイメージでは、"坐禅は自力、念仏は他力"と言われるけれども、これをより大きな枠組みで見ていくと、坐禅も念仏も、実は同じ仲間です。きょうはこのことについて説明します」

…ということで始まった良道さんのご法話。

坐禅というと、禅堂に足を運んで、一定のお作法に則って手足や身体が坐禅のかたちになったら、それからは「何もしない」。
お念仏も、「南無阿弥陀仏」と口に出して言う以外には「何もしない」。

この「何もしない」というのは何をしないことかというと、心を使って何かすること、すなわち、道元禅師の「普勧坐禅儀」にいう"念想観"をしない、ということ。

日本の仏教伝統では、この念想観は「してはいけないこと」とされていた。
「日本の仏教界はここのところにピンときてない人が多いみたいだけれど…」と、良道老師は訝しげでしたけれど…。

しかし、1995年3月20日にオウム真理教によって起こされた地下鉄サリン事件以降、これまでの日本の伝統仏教とは異なる「マインドフルネス」が入ってきたことで、混乱が生じました。

日本の伝統仏教から見て、はじめはマインドフルネスは正体不明の「黒船」としてしか見えませんでした。しかし、マインドフルネスの正体を見破っていた人たちもいないわけではなかった。

只管打坐の坐禅を深く真摯に追究してきた人たち、例えば安泰寺(兵庫県にある曹洞宗の坐禅道場)の法系に連なる禅者は、「自らの内外に起こることに注意を向け、それをあるがままに "観察すること(ヴィパッサナー)" 」は、坐禅ではやってはいけないこと」と、マインドフルネスを否定しました。

良道老師も安泰寺で修行されて曹洞宗の僧侶となられたあと、ヴァレー禅堂(マサチューセッツ州)を経てミャンマーに渡り、パオ・セヤドーの下でヴィパッサナー瞑想を修められたあともしばらくは、「只管打坐はなぜ念想観をしてはいけないのか問題」に決着がつかなかったのだそうです。


〔非思量=観自在=マインドフルネス〕

その問題を大逆転解決するカギになったのが、坐禅のバイブルともいわれる「普勧坐禅儀」にある、

「非思量」


ということば。

普通の思考を量的に増やすという次元ではない次元=不思量底を探究する方法としての非思量。道元禅師はマインドフルネスの本質をしっかり見抜いていたのです。

また、大乗仏教の代表的な経典「般若心経」に描かれているのは、世界を自在に見る(観察する)ことができる「観自在菩薩」が完全な智慧を得て観た世界の風景。

「好き嫌い、良し悪しなどの価値判断を抜きにしてありのままに観察する」と定義されるマインドフルネス。
この「観察」は、普段の日常的な意識では決してできない。なぜなら、普通の思考は価値判断するようにできているから。

普通の思考が届かない次元の意識で観察するマインドフルネスでなければ、「非思量のマインドフルネス、観自在のマインドフルネス」でなければ、マインドフルネスのほんとうの真価は発揮されない、と良道老師は説きます。


〔UFOとしての私が観るマインドフルネス〕


21世紀に生きる多くの現代人の身体観・生命観・死生観は、

「物質としての身体(脳)に心が宿っていて、物質的身体の消滅とともに「私」の生命も終わる」

というもの。

だとしたら、物質としての脳が生み出す心・意識がマインドフルネスするのなら、マインドフルネスは「生きている間だけのもの」になる。

マインドフルネスって、死んだら終わりのものなの?
マインドフルネスって、そんなもんだったの??


日本の仏教伝統では、マインドフルネスは「念想観」としてやってはいけないこととされる。また、普通の日常的な思考では、好き嫌いなくありのままに観察することは不可能…。
この八方ふさがりの状況を救うべく登場するのが、

「UFO」。


これは良道老師の独特の言葉遣いで、いわゆる"空飛ぶ円盤"のことではなくて、「物質的な存在以上の何かとしての私たち」を表現するユニークな言い回し。

ちなみに余談ですが、良道さんが「UFO」と仰るイントネーションが、あの昭和を代表するメガヒットアイドル「ピンク・レディー」のコレにちゃんとなっていたので、良道さん、意外とお茶目なところがありますね(笑)。

UFOのUは、「Unidentified」。
つまり、これまでの自分の常識では推し量れない存在様態
このUFOは、無念無想とかそういうものではなく、私たちのこの肉体には属しておらず、しかも意識があって観察できる。
「私たちはUFOでもある」ことを実感できた時に、「非思量=観自在=マインドフルネス」という意味がほんとうに理解できる。

逆にいえば、マインドフルネス=ヴィパッサナーを知った現代の私たちは、普通の思考ではない次元、UFOに誰でも一気に気づくことができる可能性を手にしたという点で、これまでになく有利な展開になってきた、と良道老師は話されました。
--- --- ---
(筆者感想)
マインドフルネスというと、「宗教的な要素を取り除いた、云々…」という説明を聞く度に、得も言われぬモヤモヤ感を感じていた私にとって、

「死では終わらないいのち、その無限性、永遠性を説いてこそ仏教・宗教。マインドフルネスはそこから出てきたもの」

と説かれる良道老師の明快なお話は、とても力づけられるものでした。良道老師、ありがとうございました!

ようやく初めて生でお目にかかることができた良道さんとの貴重なご縁を結んでくれた飯田正範さん(真宗大谷派瑞因寺ご住職)も、ありがとうございました!なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。

【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)