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【藤田一照仏教塾】「移動する学林 in 仙台(2018年4月)」参加レポート

(このノートは、2018年に開講された「藤田一照仏教塾 "移動する学林"」の仙台開講のレポートについて、まず別のSNSに投稿されたものをnote向けに再編集して移植したものです)

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藤田一照さんの活動の中でも最重要のコンテンツである"仏教塾"の今年2018年からの新たな展開、「移動する学林:LIFESHIFT VILLAGE」の仙台開講第1回に参加してきました(2018年4月28日@東京エレクトロンホール宮城)。

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らせん状に深まるorganic learningの場

「仏教的人生学科 一照研究室」のタイトルで昨年までの3年間にわたって行われた仏教塾は、8月を除く4月から12月までの前・後期毎月1回を東京にて開催というスタイルを取っていましたが、今年からの「移動する学林」は、その名前のとおり、

仙台(4月、5月)
 ↓
名古屋(6月、7月)
 ↓
京都(9月、10月)


の3都市を巡る、動的な学びのプラットフォームとなりました。
一照さんが「理想の学びの場のありかた」としてよく用いるのが、

organic learning

という言葉。

私たちが学校教育として経験してきた学びは、学習指導要領(カリキュラム)が定められ、それに準拠した教科書が指定され、達成すべき目標が与えられ、学習の進度をはかる効果測定として定期テストが実施される…といった「scholastic learning」でした。
「organic learning」では、学校での学びにおけるこれらの本質をことごとく外したような学びが展開されます。すなわち、

その場を経験して最後にどんな学びが得られるのかは、予め決まっているわけではない。

あるいは、

その場での経験の肌触りは集う人それぞれで異なるので、何を学び何が身につくのかを一義的に言うことができない。

さらに、

教師から生徒へという一方向ではなく、受講生どうしでも、教える・伝える⇔受け取る・学ぶという関係が生まれることもあります。

この「学林」では、一照さんが私たち塾生に教え伝えることを通じて、一照さんご自身が「現代に生きる人たちへの仏教のプレゼンテーションの効果的なありかた」を学ぶことになる…という点において、この仏教塾は一照さんご自身にとって「いちばんやりたいこと、一照さんご自身にとっての探究」であって、ひとりの塾生として、また運営のお手伝いやレポーターとして一照さんのmissionに関与することができて、とても光栄で、清新な晴れがましい気持ちで新たな学びの場のはじまりを迎えました。

加えて、今回は学びの場そのものが移動する。

受講生それぞれが、場への期待や願いを携えて全国から集う。そして、場そのものもあたらしい同志との出会いを求めて旅をする。それはあたかも、私たちが生きている太陽系という恒星-惑星システムが、太陽を中心として各惑星が平面に同心円状に公転しているのではなく、太陽それ自体も銀河系の中心を軸にして公転していて、さらに銀河系もまた移動しているので、太陽と地球や諸惑星が複雑ならせん軌道を描いて宇宙を旅していることを知った時に、宇宙観のあたらしい認識が生まれるように、この「都市を巡る学び」というスタイルそのものが、「学林」での学びの主眼、"私、世界、人生へのあたらしい目を獲得すること"を促しているようでもあります。

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仙台学林、0時間目

名古屋からの航空便や仙台での宿泊の予約の関係で前日入りとなった私は、開講当日の遅い朝、会場近くのカフェで朝昼食をとろうとしていたところ、昨年までの仏教塾での同級生で、この「学林」でも共に学ぶことになったある塾生と偶然ご一緒して、再会を喜びあい互いの近況を報告しあいました。

彼は、コロラド州ボルダーで行なったマインドフルネスのワークショップのお話をしてくれました。一方、一照さんも近年salesforceやstarbucks、facebookといったグローバル企業の本社で禅とマインドフルネスのワークショップを行なっていて、そこに集まる世界的企業の社員さんたちは、もとからマインドフルネスへの関心が高かったり知識が豊富だったり、あるいは既によく実践されている方も多いのでしょう。

彼がボルダーで行なったワークショップは、より草の根レベルで一般の人向けに行われたのだそうで、彼のワークショップに来て初めてマインドフルネスのことを知った人もいたのだとか。マインドフルネス発祥の地ともいえるアメリカでも一般レベルではまだまだ知られていないのかもしれませんね。
マインドフルネス初体験の人でも、彼のワークショップに参加した後には「人生へのperspectiveが少し変わった、視野が広がった感じがする」という反応もあったそうで、そんな彼のお話を伺って私が思ったのは、「日本とアメリカ、民族や文化的・社会的・政治的環境が違う中で暮らしていても、人間が本来的・根源的に抱いている"願い"というのは、人間である以上は同じなんだな...」ということでした。

この「願い」ということ…。
例えば「お金持ちになりたい」とか「良い人と結婚したい」とか「良い就職をしたい」といった、既にあって認識できる願いのもっと奥底にあって、未だ知られざる出会わざる願いに気づくこと、これが、今年の「移動する学林」での学びの基調になっていくのではないか…という予感を得たこの朝の偶発的朝食会は、仙台学林の"0時間目"として、とても有意義で貴重なorganic learningとなりました。

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〈願い〉のシェアリング

講義前半の座学の時間では、今年は一照さんとゼミ長役の桜井肖典さん、昨年までの仏教塾で記録係として講義録をまとめてくださっていた小出遥子さんの3人による共著『青虫は一度溶けて蝶になる』(春秋社刊)をテキストに学んでいきます。今回は初回ということで、第1回に臨むにあたって受講生には事前に取り組んでくるhomeworkが伝えられていました。

《仙台開催までのhomework》
「『青虫は一度溶けて蝶になる』の第1章「私とは - selfからSELFへ」をじっくり読み、各ワークに自分なりのやり方で取り組んできてください。そして『移動する学林』を通じて取り組みたい、あなた自身の〈問い〉や〈願い〉を考えてきてください。」

このhomeworkを踏まえて、当日はより踏み込んだプログラムに取り組みました。

《当日取り組んだプログラム》
あなたの人生が、なぜこの移動する学林という〈場〉にあなたを連れてきたのかに思いを馳せ、その上で、homeworkを踏まえてこの学びの場で一照さんに投げかけたい〈問い〉や、一照さんや塾生の皆さんとともに深めあっていきたい〈願い〉を、言葉にしてみてください。」

各自はこれをA4のペーパーに書き、その中から一照さんがランダムに8人の〈問い、願い〉を選び出して、選び出された8つは後方の壁に張り出され、残った人たちは張り出された8つの〈問い、願い〉を見て、共感したもの、「ピン!」ときたもの、自分の〈問い、願い〉と共鳴するのを感じたものの近くに、自分が書いた〈問い、願い〉のペーパーを張り出します。
そうすると8つのグループができて、今度は各グループ内で〈問い、願い〉を持ち寄ってディスカッションして、持ち寄られた中からひとつを選ぶのでも良いし、ディスカッションした中で新たな〈問い、願い〉が浮かび上がってきたならそれでも良いので、グループでひとつの〈問い、願い〉を集約して、一照さんに投げかけてみる…というプログラムを行ないました。

一照さんや桜井さんたちが事前に組み立ててくれた、この非常に巧みに練り上げられたプログラムを介して、塾生と一照さんの対話は学林第1回からいきなり深まって、文字通りの「白熱教室」となっていきました。

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新たな次元からの視点の導入

ある塾生から投げかけられた、

「"好き"と"嫌い"の二項対立を乗り越えるには?」

という問いについての討議で、一照さんからこのような提案がありました。

「人との関わり合いにおいて、"好き or 嫌い"という次元で行き詰ってしまうときは、そこに全く違う新たな次元を持ち込んでみると、人への対応の仕方に新しい可能性が出てきて、突破口を見出しやすくなるかもしれない。あたらしく持ち込む指標は、何でも構わないんですよ。例えば…"役に立つ or 役に立たない"でやってみましょうか?」

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"好き or 嫌い"の水平の座標軸に、新たに"役に立つ or 役に立たない"という垂直の座標軸を導入すると、次の4つのフィールドが立ち上がってきます。

1)  好きで、しかも役に立つ人。
2)  好きだけど、役に立たない人。
3)  嫌いだけど、役に立つ人。
4)  嫌いで、しかも役に立たない人。

このように4つの可能性が示されると、"誰かのことが嫌い"はそのままに、人の遇し方が変わってきますよね。もしあなたなら、例えば「嫌いだけど、役に立つ人」にはどのように接するでしょうか?「好きだけど、役に立たない人」にはどのように接するでしょうか?そして、「役に立つ or 立たない」のほかに、どのような次元を導入できるでしょうか?それはとてもcreativeな作業になります。

また、あらゆる対立軸や矛盾をも包み呑み込んで、あらたな次元へ至らしめるものとして「ブラックホール」と表現してくれた塾生もいました。それぞれがユニークな世界観が持ち寄られる学びの場の様子もまた、organic learningと言えるかもしれません。

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"自己をならふ"と自己責任論

昨年度までの「仏教的人生学科 一照研究室」から、今年度からの「移動する学林」までに通底する、一照さんの仏教塾のactivityのモットーとしていつも語られるのが、

仏道をならうといふは、自己をならふなり。
(正法眼蔵 現成公案)

という言葉。そこには、人生上に様々に起こり来る困難(difficulty)や、悩み・苦しみ・煩わしさ・居心地の悪さ(suffering)は、「わたし」の向こう側にdifficultyやsufferingがあってそれが「わたし」に降りかかってくるのでしょうか…それとも、ある事象をdifficultyやsufferingと捉えている「わたし」という枠組みが問題になるのではないのですか?という根本的な問いがあります。

そのことを、禅でも「己事究明」とか「回向返照」など様々な言葉で語られているわけですが、ともすると、「自分という問題」とか、問いを向ける矢印を自分の外側にではなく内側に振り向けていくことを、

「わたしのせい?」

と誤解してしまいそうになることがあります。ある塾生も同じ疑問を持っていたらしく、

「"自分が問題"という話を聞くと、何とはなしの圧迫されるような感じを受けます」

と発言してくれました。
私も、それを補強するようなかたちで、「"自分という問題"を取り扱うことと、(乱暴な)自己責任論とは、どう関係してくるのでしょうか?」という問いを提起しました。
すると、また別の塾生からも発言があり、それらのやりとりの中で、

「"この問題が生じた責任はわたしにあるのだ、わたしのせいなんだ"とすることは、結局は"誰かのせい、何かのせい"と外側に矢印を向けていることと構造としては同じなのだ」

ということがよく理解できました。

このように、その場で話し合われた具体的な内容・テーマは何だったのか?ということも重要なのだけれど、それら諸テーマについて互いに尊重・尊敬しあいながら皆で深めあうことができる、学林の自由闊達な学びのatmosphereが、とても素晴らしくて大好きで、そういった<雰囲気>こそが、そこで学ぶ者の内的成熟を醸すのかもしれません。

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comfort zoneの中にMagicはない

スモールグループでの<問い、願い>のシェアリングの時間で、私がご一緒させていただいたグループでは、自らが置かれている境涯に対する居心地の悪い感じについて、子どもの頃は居心地が良いとも悪いとも感じていなかったのが、人生のある時期で居心地の悪さを感じるようになった、という方もいれば、もう子どもの頃から既に居心地が悪い感じがしていた…という方もいらっしゃって、様々でした。

この「いま私がいるところ、生きている事実に対する居心地悪さ」という事態から学ぶための「仏教という補助線」として一照さんが示してくださったのが、ゴータマ・ブッダの仏教の"エピソード1"ともいえる、「四門出遊」の故事でした。

シャーキャ族の王子として、人生への何の問いもなく(あるいは、父王である浄飯王(スッドーダナ)からゴータマへの"親心"から、問いを持ちえないような環境におかれていた?)生きていた城郭。問う必要もなく生きることができていた環境について、一照さんはこれを、

「comfort zone」

と表現しました。

ゴータマさんにとってのcomfort zoneの城郭の東門から出て出会った病者、南門から出て出会った老人、西門から出て出会った死者…。<生き死にのリアル>に直面したゴータマさん、しかし"エピソード1"はそこで終わりではなかった。北門から出て出会った、諸国を遊行する沙門の威儀厳かな佇まいに、"何か"があるという可能性を見たゴータマさんは、出家を決意した…。

ゴータマさんに衝撃を与えた<生死の現実>にしても、その姿に"生死を離れる"わずかな道筋を見出した沙門の存在にしても、それらは"comfort zoneの中にはなかった"のでした。城郭の中に居たままではゴータマさんに劇的な内的変容は起こらず、青虫もまた青虫のまま空を飛ぶことはできないのですね。

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"人生の並走者"としての仏教

また、別の塾生からは、この学林で深めたいテーマとして、

「女性性の目覚め、男性性への別れと再会」

を挙げてくれました。

私たちの生命を成り立たせている大本の構造に立ち返ろうとするとき、女性あるいは女性性にもっと目を向けるべきなのではないのか?という問いを持っている彼は、自らが住職を務めるお寺で「女性や子どもに開かれていて、女性や子どもが安心して元気でいられるお寺」という活動を展開しています。
それに呼応するかたちで、一照さんからも、

「これからの仏教は、"Sex,Money and Death"について、もっと積極的に言及していかなければならない」

という発言がありました。

Sexは性行為に限らず家族やジェンダーの問題などをも広く含んでおり、Moneyは職業とか経済活動、お金を媒介にしたコミュニケーション全般について。これらはいずれも、私たちの暮らしや人生に必ずついて回る事柄ですね。これらのことは、気鋭の仏教学者である魚川祐司さんがいみじくも「仏教とは煎じ詰めれば、"女性と目を合わすこともできないニートになれ(生殖と労働の放棄)"という教えである"」と表現したごとく、覚りへの道のりを妨げるものとして忌避されてきたという伝統的な経緯があります。

そしてDeathは…私の身近なところにいる私と世代が近い人の中には、最近になって親を亡くされた方も出てきていたり、私も時折実家に帰って父や母に会ったりしたときに、「この人たちとはこの先長くても20年は一緒に居られないのだな…」と、ふと思うこともあります。しかし、明日の朝にはさも当然のように起床して、死は日々の些事に紛れてぼやけていってしまい、普段の日常の中ではなかなか死が身近なものになるところまではいきません…。

テーラワーダや密教、禅や浄土仏教、アメリカを経由してきたマインドフルネスに至るまで様々な仏教を同時代的に学び実践できる非常にユニークな現代的状況にあって、例えば、タイやスリランカなどの国へ渡って、森の奥深くにある僧院にこもって可能な限り俗世の環境から離れた状態で瞑想修行に打ち込むことはできなくもないけれど、少なくともいまの私にとっては現実的な話ではない…。
しかし、一照さんが「仏教塾」というかたちで提示してくださる仏教は、私たちが様々な人と交わり、ときに軋轢を起こしながらも日々生きて暮らしてそして死んでいく現場で、いつも絶妙な距離感で走ってくれている「人生の並走者」という感じがします。

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つながりと自然を体認するボディワーク

後半のソマティックワークの時間では、まずは一照さんお得意の「如意棒ワーク」を実修しました。
如意棒ワーク自体は、私は仏教塾以外の一照さんのワークショップ等で体験したことがありましたが、今回初めて行ったのが、「1人バージョン」の如意棒ワーク。

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棒の両端の球を両手の平で軽く挟むように持って、腕を上げ下げしたり、上体を反らしたり旋回したりする動きを通じて、それまで気づかなかった身体の連関性が垣間見えたり、あるいは「肩関節ってここまで回るんだ、意外に可動域が広いな…」という発見があったり、まるで「ヒモトレ」の実践の中で観えてくるような気づきや効果を感じました。

続いて2人組でのワークから、任意に多人数へとつながり合っていくワークへ。人数が増えてくると、「あれ、あの人といつの間にかあんなつながり方をしていた」という気づきがあり、最後に8人~10人にまで広がった大きな集団がつながり合ったまま収縮して、「人間ホバーマン・スフィア」のようなオブジェを形成してフィニッシュ。「WeのOS」の大事なクオリティ、"つながりのヴィジョン"を外的にも内的にも体認できるワークでした。

続いては、床の上に仰向けに寝る「屍のポーズ(シャバーサナ)」での瞑想。

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これは、身体の各パーツごとに集注を向けていく"ボディスキャン瞑想"の要素と、昨年の仏教塾で取り組んだチベット仏教の瞑想、すなわち、肺で取り入れた空気を各パーツに送り込むのではなくて腕や足などの"現場で直接"、そこの毛穴を通して空気が出入りするイメージを手助けに行うという要素が自由に即興的に組み合わされた瞑想の実修で、私の身体と地面(地球)との接触感(Groundedness)に親しんでそれを深め、いまここにある身体を味わうワークでした。

次に、一照さんが最近特に関心を持っている中国武術のエッセンスを取り入れた2つのワーク。
ここでは、

「古(いにしえ)の身体観へ近づくことを試みて、本来本有の自然のはたらきに還って(返して)いく」

がテーマです。

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1つは、日本の相撲のルーツともいわれている中国の組み技系武術「摔角(シュワイジャオ)」の型稽古を通じて、ある一定の手順(回数、方向、順序)に沿って身体を動かすことによってある"筋道"が通り、筋力を使わなくても身体に元々あるエネルギーが通じて身体に満ちていく…という「勁(けい)」のクオリティの体認を試みました。

もう1つは、現代人は忘れ去ってしまったけれど古の人はリアルに感じていたという「身体の表と裏を身体の左右に観る身体観」のワーク。前後と左右の表裏観が揃った時(定位)とズレている時(不定位)とで起こることの違いを体験した塾生の皆さん、やはり身体感覚に関心が高かったり、豊かでありなおかつ繊細な感性をお持ちの方が多かったとみえて、一様に新鮮な驚きをもって実修されていました。

最後に椅子に腰掛けた状態で、屍のポーズで行なったのと同じ瞑想を行って、地球の引力と身体の軸の方向が近づいて揃った時の通りの良い垂直性・直立性(Uprightness)を味わうワークで、「波」としての個別存在を成り立たせている<海>としての自然のはたらきによってつながっている<WeのOS>のヴィジョンを体認するボディワークの時間を終えました。

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5月仙台学林へ向けてのhomework

1) 「IのOS」ではなく「WeのOS」で起こった、あるいは起こした、あなたやあなたの周りの行為や出来事を日々探してください。そして、この「学林」塾生専用Facebookグループページでシェアしてください。
2) 毎日10分以上、継続して、接地性(Groundedness)と垂直性(Uprightness)を感じつつ、自然な呼吸の流れを感じる瞑想(呼吸に干渉しないでただ味わう、特に息と息の合間を大切にして)をし、出来た・出来なかっただけではない、きめ細かな感想をメモしてきてください。立ち上がってきた感覚、感情、思考、洞察、そのことが周囲の眺めや人間関係に及ぼす影響といったものです。実験的精神で取り組んでください。

5月仙台学林で、また皆さんと<問い>や<願い>を持ち寄り、共に学び深めあえるのを心から愉しみにしています!

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【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)