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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/11)学習ノート①

藤田一照さん(禅僧)が主宰する仏教塾、「道元からライフデザインへ -Institute of Dogen and Lifedesign」の後期第3講に参加してきました(2019年11月23日@京都府立文化芸術会館)。

(先月開催の後期第2講の模様は、こちらからご覧ください)

この学習ノート①では、一照さんによるearly bird talk「ソマティックワークとの出会い」について振り返っていきます。

0. 一照塾"ゼミ長"桜井肖典さんからご挨拶

皆さん、おはようございます!
京都はちょうど今が紅葉のシーズンで、今日は街中も人出が多く道も渋滞している等で、思いがけず遅れて来られる方もいらっしゃるということで、これから15分くらい、定刻に間に合った皆さんがちょっとだけ得をするようなinspiration talkを、一照さんにお願いしたいと思います。一照さん、よろしくお願いします!

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1. ソマティックワークとの出会い:アレクサンダー・テクニーク

僕は、アメリカで修行したり坐禅の指導をしたりして暮らしていた時に、様々なボディワーク…いまは「ソマティックワーク」と呼んでいる、身体からアプローチして人間の心と身体を癒したり向上させたりするいろいろな手法・メソッドを、機会があるごとに体験したり学んだりしていました。

いちばん初めに出会ったのは、「アレクサンダー・テクニーク(AT)」でした。

僕は坐禅会の時などに、姿勢のことについてよく話すので、坐禅会にやってきた人のひとりが「アレクサンダー・テクニークを知ってるか?」と言うので、「何それ?どんなテクニック?」と聞いてみたら、オーストラリアに生まれたフレデリック・マサイアス・アレクサンダー(1869-1955)という人が始めたボディワークということでした。

彼は、シェイクスピアの戯曲作品を声で朗唱して演じる舞台俳優でしたが、ある時から声が出しにくくなってしまって、いろんなお医者にもかかってみたけど悪くなる一方で、ついには全く声が出なくなってしまいました。

「なぜこういう症状が出るのか?」を知るために、彼は自宅のあらゆるところに鏡を置いて、自分の姿を観察するようになりました。
それで、ある時に気がついたのは、自分が声を出そうとする瞬間に、首の後ろ側が縮んで緊張させる癖があるということでした。

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「この首の緊張を緩めればいいのだ」と思って緩めようとすると、余計に緊張してしまうのにも気づきました。
自分のことだけでなく、周囲の人たちのことも観察してみると、多くの人が何かの動作を起動するときに不必要な身体の緊張を生じさせていることが分かってきました。しかも、それを直そうとすると、直そうという努力がその緊張を生み出してしまうというジレンマに陥ったということです。
この時間は、そういう話をしてみようかと思います。


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2. Inhibition, Direction

ATで最初にやらなければいけないのは、直そうとすることではなくて、日本語では「抑止、抑制」と訳されている、「インヒビション(Inhibition)」ということです。"何かが起ころうとするのを止める"という意味です。

その次に来るのが「ディレクション(Direction)」です。

それまでの習慣的な癖(old pattern)を一旦抑止する。
その次に、新しい方向性(new direction)をもって運動する
ATの練習では、こういうプロセスを辿ります。
僕らは、ついつい今までの癖で動いてしまうので、ATのレッスンの時には、先生は僕の首の後ろのところに手を当てて、先生が直すのではなくて、習慣的な動きのパターンが起きているよ、とフィードバックしてくれるのです。

最初のレッスンでは、椅子から立ったり座ったりするのを練習しましたが、従来の癖の動きがしょっちゅう起きているので、先生の手にコツン、コツン、と当たるんですね。

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これは、首が硬直して短くなって、頭が後ろにいってしまうことで起こるのですが、これとは違う方向性で動く必要がある。
いちばん最初に与えられるディレクションは「neck free」でなければならないということでした。
それから、頭のディレクションは「up and forward」です。
僕らの首や頭の習慣的な動きは、"短くなって、後ろへ"、あたかもカメがビックリした時の驚愕反射のように、何か動作しようとすると首がキュッと縮こまってしまうのですね。それを抑止(inhibit)して、首が長くなって、頭が最初に動き出して(head first)椅子から立ち上がっていく…という練習をします。その結果、背中が長くなって広がる(lengthen and wide)
もうひとつのディレクションは、ひざが股関節から遠ざかるようにして座っていきます。
細かく言うともっとたくさんのディレクションがあるのですが、「古いパターンを抑止して、新しい方向づけで動く」というのが、ATのレッスンの大まかな中身なのです。

仏教の修行についてもこれと同じことが言えると思います。

古い習慣的なパターンの延長線上で事に当たるのではなく、全く新しいディレクションで人生に向き合っていくことが大事になってくるので、今日の講義では、そういった内容の話をお伝えしていくことになると思います。

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3. ソマティックワークとの出会い:フェルデンクライス・メソッド、BMC


◆ フェルデンクライス・メソッド

次にアメリカで出会ったのは、「フェルデンクライス・メソッド」でした。これは、モーシェ・フェルデンクライスというイスラエルの物理学者で柔道家の人が始めたボディワークです。フェルデンクライスさんは、西欧人として初めて柔道の黒帯を取った人ということです。

フェルデンクライスさんは、日本に来た時に野口晴哉さん(「野口整体」創始者)と対談したということです。

僕はもともと鍼灸師になろうと思って、鍼灸の先生について鍼灸学校に入って鍼灸師になるつもりだったのですが、お寺に入ってしまって今に至っているので、鍼灸師にはなり損ねてしまいました。ですので、このような"癒しの道"には昔から関心があったのです。

マサチューセッツのヴァレー禅堂に入るためにアメリカに渡ってからもそういうものを探していたのですが、アメリカ生まれのソマティックワークがいろいろあるということが分かってきました。
ヴァレー禅堂に坐禅をしに来るような人たちの中には、そういうことをやっている人が多かったのですが、当時はインターネットがなかったので、口コミでいろいろなソマティックワークの存在を知っていきました。


◆ ボディ・マインド・センタリング
ある時、20人くらいの人たちが団体で僕の坐禅会にやって来たのですが、話を聞いてみると、彼らは「ボディ・マインド・センタリング(Body-Mind Centering®、BMC)」を学んでいる人たちでした。このボディワークの名付け親は、禅の老師だったのだそうです。

彼らは、「School of Body-Mind Centering」の生徒さんたちで、生徒といっても様々な仕事に就きながら学んでいる人たちでした。その時やって来たグループでは看護師さんが多かったですね。僕が親しくなったのは、看護師さんがいたし、ヨガの先生やダンサーの人もいました。
その人たちと話しをしていたら、「Issho, you should meet our teacher.」と言われて出会ったのが、ボニー・ベインブリッジ・コーエン(Bonnie Bainbridge Cohen)さんでした。

ボニーさんは、ヴァレー禅堂から車で1時間くらいのところに住んでいらして、毎夏に近くの大学の体育館を借りて、そこをBMCの学校にしていました。そこで学んでいた生徒さんたちが、学校の休暇の時に「近くに禅堂がある」というので車を連ねてやって来たというわけです。
後に、僕もその学校に入りました。でも、資金が続かずに最初の1年目だけしか通えませんでした。その1年目も授業料を全部は払えなかったので、ボニーさんの旦那さんに日本語を教える先生役を買って出て、日本語の授業1時間に対していくらということで授業料を割り引いてくれたりしました。それでボニーさんと親しくなったのです。ボニーさんが日本に来た時には、茅山荘に泊まってもらったこともありました。

昨日たまたまネットを見ていたら、ボニーさんの言葉で興味深いものを見つけましたのでちょっとご紹介しようと思います。

Part of the problem is that we do things the way that we know how to do them.
(我々が抱えている問題の一部は、我々が既に知っている方法で物事を行うことにある)

例えばヨガだったら、あるポーズでストレッチをしていて、もっと伸ばしたい時には、その同じ路線で伸ばそうとするようなことです。
同じやり方で、もっと力を入れてグイグイ伸ばそうとしてしまうのだけれど、そこで大事なのは「いかに少ない力でやるかという工夫だ」とボニーさんは言っています。

Often we try to use more force and the key is how to use less force.

これは、9月の仏教塾の時にご紹介したのですが、「Less is the new more.」という言葉。これはフェルデンクライス・メソッドのプロモーションビデオのsubtitleから引用したのですが、

「より少ないことが、より多いことである」、すごく禅的ですよね。
しかも「新しい」と書いてある。特にこの文脈での"New"というのは、「目新しい、見たことがない、これまでになかった、これまでまったく知らなかった」というニュアンスがあると思います。


◆ より努力することより、より"効率的"であること

How to become more efficient rather than more effortful.
(もっと努力することより、どのようにより効率的であるか)

自分が自己満足的に「俺は頑張ってる!effortしている!」というようなことではなくて、「efficiency」、実際に効果が表れているかどうかが大事だと言っています。そのためには、私がどれだけ努力しているかという"手応え感"は不必要だということが言われています。

人間はここのところを取り違えてしまうところがあって、例えば芸術作品を評価する時に、僕らはそれを努力の量で評価してはいませんよね。
「ここまでの作品に仕上げるのに、相当な努力をしましたね」というところに芸術的価値があるのではなくて、サラッと描いたものに芸術的価値がある場合がありますよね。ところが僕らは、努力の量を芸術的価値の代わりにしがちなところがあります。特に芸術の場合は、努力がまったく通用しない世界があります。

この間、柔道のオリンピック代表選手を選考する試合をテレビで見ていたのですが、終生のライバル同士が決勝で対戦していましたけど、ちょっとした油断で勝負が決してしまうわけです。「あんなに努力したのに、何時間も練習したのに…」といっても、その試合の勝敗はひっくり返らないわけです。「俺はこの試合に負けたけど、俺は100時間練習したし、あいつは99時間だから、勝者は俺だ」というのは通用しないわけですね。「How to become more efficient rather than more effortful.」というボニーさんの言葉は、このことを言っていると思います。

If we can understand how it is the body works most efficiently to accomplish whatever the task is, we would be able to improve our comfort.
(もし我々が、どうすれば身体が最も効率的に働くかを理解することができれば、我々の心地よさを改善することができるだろう)

努力というのは、心地悪さを我慢してその路線のままやってしまいがちになるわけです。なぜかというと、それは"既に知っているやり方、今までやってきたやり方"だからです。そこを変えなければならない…というのが、ボニーさんからのメッセージだと思います。
BMCのサイトには、最近はボニーさんが話した言葉を書き留めた"名言集"のようなコーナーができていて、いま紹介した言葉はそこに載っていたものです。

従来のやり方を継続することではなくて、やり方を"刷新(renewal)"していくこと。これは勇気が必要です。知らない世界に足を踏み入れていくことになりますからね。

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4. 而今

僕らが直面している現実というのは常に最新のもので、今までに一度もなかったようなことに僕らは刻々に踏み込んでいっているわけです。これは実際の話です。
予定通りのことが起こる時もあれば、まったく想定外のことが起こるかもしれないけど、とにかくその全体は、宇宙でたった一回しか起きない最新の出来事として僕らとともにあるわけです。それが「今」というもののありかたです。

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道元さんは、これを「而今(にこん)」と言っています。

而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫已前の消息なるがゆえに、而今の活計なり。
『正法眼蔵』「山水経」巻
いはくの今時は人人の而今なり。我をして過去未来現在を意識せしめるのは、いく千万なりとも今時なり、而今なり。
『正法眼蔵』「大悟」巻


……もしかして、カメラメーカーの「Nikon」って、ここから来てるの?

(塾生aさんコメント)
それは違います。当時の社名「日本光学」の略から来ています。

ああ、そうなの!…あっさり言われちゃった(笑)。

昨日の正解は、今日の正解ではないかもしれないですよね。
今日の正解は今日の正解でしかなくて、明日もそれが正解かどうかは分からない。
だから、今日の正解を探さなければならないということですね。
それを、effortfulのほうに基準を置くと、今までやってきたやり方の延長線上でやってしまいがちになるのだけど、いかにefficientとかcomfortを基準にして物事に相対するか。comfortも、昨日のcomfortでも明日のcomfortでもない、而今のcomfortを探さないといけないですね。
居心地が良いとか、スムーズに流れるように事が運ぶというのがefficientということですね。

僕らはどちらかというと、手応え感があるような、グーッと力を込めてやるような感じのほうが「やってる感」があるので、ついそちらのほうを選びがちなのだけど、そうではない。


◆ 一照さんのシステマ体験
先日、ロシア武術「システマ」のナンバー2という人の講習会に参加してきたのですが、気持ち悪く感じるくらい、先生の身体は柔らかいのですね。

相手が叩いてくるエネルギーを使って拳が出てくるので、こっちが「やった!」と思っていると、そのそばから向こうから手がドーンと出てくるので、防ぎようがない。
僕は「叩くぞ!」と緊張しているのだけど、先生はクネクネなので、動きを見ているとタコみたいな感じですね。

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先生を手で押すのですが、手が先生の身体の中にズブズブと入っていくんですよ。「effort感」がないんですね。

アレクサンダー・テクニークの話のところでの、今までの習慣的な癖を抑止(inhibition)して、新しい可能性を探るということと、いまのボニーさんの話には共通点があると思っていて、こういう態度というのは仏道修行においても大事なのではないかと思います。

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......このあと、学習ノート②に続きます。


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