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ANDY WARHOL KYOTO

『キャンベルスープの缶』(Campbell's Soup Cans)が我が社にやってきた!ポスターだけど、笑。お店で展示しようか迷ったが、我が社の”ファクトリー”(自宅事務所)に飾ることにした。

ポップアートの旗手として、アメリカの大量消費社会の光と影を描いたアンディー・ウォーホル(Andy Warhol)の大回顧展『ANDY WARHOL KYOTO』に行ってきた。アンディー・ウォーホルからの影響は計り知れず、この仕事の骨子となっている。

作品にはじめて出会ったのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド(The Velvet Underground)のアルバム『The Velvet Underground and Nico』に描かれたバナナのイラスト。幼少のころからアレルギー体質で体が弱く、非常に繊細でコンプレックスの塊という人となりを知ると、遠い存在のはずなのに親近感を覚えて作品を掘り下げるようになった。後のニューヨークでの暮らしに繋がり、その意味を肌で感じることができたのが、代表作の一つ『キャンベルスープの缶』である。

アンディー・ウォーホルは、大衆文化から主題を得ることで、前衛芸術運動としてポップアートを導き出したとされている。自身のアート作品に流れ作業を取り入れ、アート作品に大量生産の概念を持ち込んだのである。その生産工場と化したのが、かの有名な“ファクトリー”(The Factory)である。

ファクトリーとは、自身が作品を制作するだけでなく、名立たるアーティストやミュージシャン、トランスジェンダー、俳優が集る場となり、数多くの作品を生み出したスタジオ兼サロンのこと。アートワーカー(芸術労働者)を雇い、シルクスクリーンプリントなどで作品を量産していた。“一点物”であることに大きな価値があるとされてきた1960年代に、目まぐるしい速度で経済発展を遂げる当時のアメリカ社会において、「アートの価値とは何なのか?」を問いかけている。

この仕事の中で、現代日本の大量消費社会において「もの売り(もの作り)の価値とは何なのか?」を常に意識するようになった原点がアンディー・ウォーホルであり、1950年以降の資本主義社会の歴史を教科書とするようになった。大袈裟ではなく。

50年代の猫イラストと晩年の《最後の晩餐》

『ANDY WARHOL KYOTO』は回顧展として位置づけられている。1950年代のイラストレーターとしてのドローイングにはじまり、60年代以降の「死と惨事」シリーズや有名人の肖像画、晩年の作品など、時代の変遷とともに変化していく様子に、人間味を感じることもできた。

10代でアンディー・ウォーホルの作品に出合い、わたし自身の生活においてもさまざまな光と影をみるようになった。仕事でも資本主義社会の恩恵を受けたり、理不尽さに苛まれたりするたびに、ふとアンディー・ウォーホルの語録を思い出したりもする。

四年前に洋服ブランドallinoneでPERSONA shirtをリリースした際にプロモーション動画を制作した。ブランドの相方からの提案でアンディー・ウォーホルの言葉を引用することに。少しだけ種明かしをすると、PERSONA shirtは生地の裏が表になっている。

I’m afraid that if you look at a thing long enough, it loses all of its meaning.
物事を見すぎることで、それが持つ意味がまったく見えなくなることを私は怖れる。

If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me, and there I am. There’s nothing behind it.
もしアンディー・ウォーホルのすべてを知りたいのならば、私の絵と映画と私の表面だけを見てくれれば、そこに私はいる。裏側には何もない。

以下、余談。『ANDY WARHOL KYOTO』は京都だけでの開催で、巡回はない模様。京セラ美術館は、前の宮司様と亡き親父が知人というご縁もあって挙式を執り行っていただいた平安神宮の目の前。もちろん参拝に出向いた。京都の特と徳を感じた日。ちゃんちゃん。